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江刺の稲

とことん私利私欲であればこそ

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第10回 1995年04月01日

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 それは、法律や制度や契約などといったもの以前に、むしろその前提となっている、もっと素朴な人々の「わきまえ」がいかに社会にとって価値あるものであるかを、あらためて確認したからなのではないだろうか。

 誤解されそうな言い方だが、人は頭ではなく、胃袋や手足の筋肉で考えるようなこと、をもう少し大事にすべきなのではないか。人が経験のなかで振る舞い方として選んできたこと、それも僕や父の世代というより、祖父や曾祖父が何を考え、どう振る舞ってきたのかをもっと学ばなければならないのではないだろうか。

 それは多分、頭だけで考えた「正義」や「善意」や「良心」によってではなく、むしろ食べ過ぎれば腹をこわすおのれの胃袋で哲学し、振舞いを選ぶ智恵だったのではないのだろうか。いわばトコトン私利私欲であればこそ、目先の小さな欲を越え、時代の同伴者、そして共に生き、伝えるべき未来のために働くことではなかったのだろうか。そのために自らを問い続けたい。他人を問うても答はないのだ。でなければ、不安に駆られた原理主義者のテロリズムに世の中が揉謂されかねない時代なのだ。

 しかし、現在をどれほど暗く認識しようとも、我々は常に明るく未来を夢見る態度を捨てたくない。以前、ある老農から「明日死ぬのだとしても今日は堆肥をまくというのが百姓の生き方なのだよ」と教えていただいたことがある。僕も、今日がどれ程の土砂降りの雨であったとしても、明日が「晴れたらいいね」と歌いながら未来のために堆肥をまく自分でありたい。

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