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旅の曲者

故郷と異郷のはざまで

敬愛する知り合いのアメリカ人作家から来たメールに、次のような言葉が引用されていた。「自分の故郷をいとおしむ者は、まだ未熟者である。どこの土地でも故郷だと思える者は、すでにひとかどの力ある人である。だが、全世界は異郷のようなものだとする人こそ完璧なのである」

 敬愛する知り合いのアメリカ人作家から来たメールに、次のような言葉が引用されていた。

「自分の故郷をいとおしむ者は、まだ未熟者である。どこの土地でも故郷だと思える者は、すでにひとかどの力ある人である。だが、全世界は異郷のようなものだとする人こそ完璧なのである」

 作家によれば、これはサン=ヴィクトルのフーゴーという中世の哲学者の言葉だという。ぼくは作家にある質問をし、その答えの最後に、彼はこの言葉を書き添えてくれたのだった。

 質問の内容はさておき、この言葉はぼくには、とても新鮮に響いた。自分がおぼろげに感じていたことが、このシンプルな言い様の中に的確に表現されている気がした。

 一方で、この言葉にはわかりにくいところもある。

「自分の故郷をいとおしむ者は、まだ未熟者である。どこの土地でも故郷だと思える者は、すでにひとかどの力ある人である」
 ここまでなら、すんなり理解できる。一つところに留まって、そこに執着しているのは未熟な状態である。そこから飛び出し、世界のどこにあっても、そこを自分の故郷と思えてこそ、初めて力ある者となるのである。

 ひっかかるのはそのあとだ。

 「全世界は異郷のようなものだとする人こそ完璧なのである」

 故郷だと思えた世界の一切が、逆に自分にとって異郷と感じられるとき、その人は真の意味で完成を見る、と哲学者の言葉は言う。しかし、そこに腑に落ちないものを感じる人もいるのではないだろうか。

 仮に、文の順序が逆だったらどうだろう。最初が、故郷を愛おしむ段階、次に全世界が異郷と感じられる段階、最後に全世界が故郷と感じられる段階が来るとしてみる。この方が異文化に対する理解の深まりを順当に表現していて、理屈に合っている気がするのではないか。しかし、一方で、これでは意外性に欠け、凡庸な印象を受けてしまう。

 世界全体を故郷だと考える。博愛主義的な格言めいたこの言い方は口でいうのは簡単でも、それを実感することはとてつもなく困難である。むしろ、ある土地に長く住めば、その土地についての知識は増すかもしれないが、距離感や違和感もいっそう増していくというほうが真実に近い気がする。全世界を故郷だと思う感覚とは、自己の内に作られた観念世界についてのみ、言えることなのではないか。

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