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農業経営者ルポ

農業者であることが僕の「作品」 高見澤憲一

 5年間も放棄された畑は草だらけ。しかも石ころだらけの畑。野菜つくりの技術や知識というより、そもそも農業初体験。非農家が農業を始めるのと変りない高見澤さん一家だったのだ。

 投資のできるお金があった訳でもない。機械は、まず150万円で中古のジョンディア(50馬力)と動噴を買った。借金である。肥料も資材の代金も農協からの借金だった。

 約3haで始めた最初の年、大規模な野菜作では必須の管理機械といえる全面マルチの機械やブームスプレーヤもない。機械に代わる働き手は高見澤さんと同様ほとんど農業体験のない両親。

 機械のない全面マルチ掛けは、母上がトラクタに乗り、その後から高見澤さんと父上がスコップで土を掛けていくというものだった。それでもともかく2haをマルチ掛けした。マルチ無しで作れて楽だと思ったキャベツは雑草に埋れてしまう始末。ブームスプレーヤもなく、3haの畑に手でホースを引張っての防除作業だった。

 でも、一番辛かったのは、原野に戻ってしまった場所で「畑を作ること」だった。最初の数年間は気が遠くなるほどの草取りと石拾いの連続であった。除草剤の使用を控え、プラウもない機械装備では雑草の根や茎を処理しきれず、マルチ掛けの手間はさらに大変だった。

 85馬力と100馬力のジョンディアをはじめ4台のトラクタ、22インチ×2連のリバシーシブルプラウ、ブームスプレーヤ、中古でもバックホーまでを持つ今の高見澤さんと比べれば、ほとんど素手で原野に立向かうようなものだった。

 「今、考えたらよくあんなことできたって思いますヨ。雑草畑で、しかも面積もある。野菜より草の方が伸びちゃうんだから。『メクラ、ヘビにオジず』で始まっちゃって、あとは自分が選んだ道、とにかくやり通したいという意地だけだった。それに難しいことは考えず、ま、いーか、草でも取るかの精神ですよ」と笑ってする昔話し。


雑草が作っていた土


 しかし、悪いことばかりでもなかった。 5年間草ぼうぼうに放置されていた畑は、草取りと虫の害はあっても雑草が土を甦らせていた。雑草の根が畑を耕していたのだ。周辺の人々が、客土までして畑の上を改良しようという時代に、高見澤さんの「雑草畑」は自然のままの無理のない有機物循環で生き生きとした上が取り戻されていた。

 雑草や虫には苦労させられても、栽培技術は未熟でも、病気や土壌障害の出ない上が高見澤さんを助けた。草取りに手を取られて収量は今の半分以下かもしれないが、草の間に隠れるようにできていた野菜の品質は確実に今より良かった、と高見澤さんは言う。

 そして、そこでの栽培体験が、まったくの素人として農業を始めた高見澤さんのその後の経営感、技術感を育てたようでもある。

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