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農業経営者ルポ

農業者であることが僕の「作品」 高見澤憲一

 そして、前に訪ねた時、彼が話してくれた言葉を思い出した。それが、前述の自ら定める出荷品質基準であり、彼のプライドだった。

 自分に力が無いと思うからこそ共選に出荷すると彼はいう。でも、手にするお金が減ることにつながっても、あえて自らに課す品質管理にこだわる。しかし、共選のシステムの中に充分な品質管理思想がないこと、そして出荷する農民の心の貧しさに苛立ちを感じることもある。

 世の中には確かに不必要な出荷基準や品質基準もある。しかし、義務として強制された「出荷基準」や「品質管理」をぼやくのではなく、自分を磨き、自分の未来を創り上げたいと考えるからこそ厳しい選別を自らに課す高見澤さん。それこそが傲慢にならず、しかも己れの未来を自ら創ろうとする経営者の、そして職業人たちのプライドなのだと言うべきではないか。そして、高見滓さんのこういう『腹すかしたってこの意地だソ』という覚悟こそが、彼の未来を約束させていると僕は思った。

 高見澤さんは、競争が厳しく顧客に評価される事によってのみ次の仕事のチャンスが与えられる職場環境にいた。誇りある職業人にとって、本来それが当然のことなのである。良ければお客に「有難う」と言われる嬉しさ、拙ければ「もう貴方は必要ありません」とダメを出される惨めさとの両方を感じられる仕事をしてきた。そして創作家である高見澤さんだから言える言葉かもしれないが、

 「僕にとっては、野菜一つも農業経営も人生を掛けた『作品』だと思うのですヨ。生涯、一生かけてどんな作品を作るか……それを創ること自体が楽しい。評価されるかどうかではなくネ。でもそれが自分の作品だと思ったら誰も半端な物は作らないでしよ。誰の人生にも素材は平等に与えられている。創造するかどうかはその人の意志しかない」と言った。

 高見澤さんは農業の経営に取り組む中で、この野辺山の畑に彼自身の生きる場を見出しただけでなく、いつの間にか農業経営をする人生そのものが「作品」なのだと考えるようになっていった。(昆吉則)

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