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江刺の稲

耕すは種蒔くために非ず

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第11回 1995年06月01日

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 昔から日本人にとって「だがやす」とは、「田を返す」ということでも、ただ単に「作物を植える準備として、田畑を掘り返す」ことでもなく、農業の基本原理としての田から得たものを「田へ返す」「戻し続けよ」「循環を守れ」を意味する言葉であったのだと僕は思う。

 人の思い通りにならない圧倒的な力をもつ自然。その中で、継続的に安定して生きる糧を得ていく農業という「自然を管理する方法」。その基本原則が「循環を守る」ことであり「戻し続ける」ことであるからだ。人が喰っていくことと同じ意味であったはずの「耕すこと」の本質として、「田へ返せ」と語られていたのではないだろうか。「喰うこと」とは「戻すこと」であったのだ。

 話は変わるが、作ることに夢中になると、なぜ作るかを問わなくなり、売ることに夢中になるとナゼ売るかを問わなくなる。製造部長なら、営業部長なら、それで済むかもしれない。しかし貴方は経営者なのだ。それでは足りないのだ。

 いつの間にか、我々は、春に始まり秋に終わる一連の作業の流れとしてしか農業が見えず、その作業消化に追われ、様々に発生する障害への対症療法的な対策ばかりに気を取られ、また当面の売上や利益の大小にばかり目を奪われてはいないだろうか。「技術」や「売上」あるいは「単なる帳簿面の利益や費用」や個々の作業という木にとらわれて「経営」という森が見えなくなっているということはないだろうか。

 「耕す」ということが、種まきや田植えの準備作業としてしか考えられなくなっているのではないだろうか。むしろ、収穫に次の始まりを感じることができるだろうか。

 我々はあらためて「耕す」を技術の問題として「田を返す」だけでなく、経営の問題として「田へ返す」につながっているかを問うことが必要なのではないか。

 そして、僕が行き会えた優れた経営者たちの実践とは、常に「戻し続け≒耕し続ける」という農業の原則を守ることでありぞの「意志」を持ち続けることであった。

 農業経営者だけでなく優れた仕事を成しかあらゆる事業経営者たちもまた、その規模の大小を問わず同じことを語る。土を離れた事業者にとっての「土」とは顧客であり、市場であり、そして取引先であった。それらの人々は、「田へ返す」「土へ戻す」それも「取る前に戻す」ことを考えている。「戻せないのは欲が足りないのだよ」という人もいた。もっとも、戻しても成功の保証などはない。それでも戻す人が成功者だりえるのであり、戻せぬ者はやがて滅びるのだと僕は思う。

 「耕すは種蒔く為に非ず」とカタログに謳うスガノという企業の経営と営業活動も、この「田へ返す」の精神なのであろう。そして、この精神には、農業も他の産業も仕事の違いもなく、人の一生もまた同じなのではないか。

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