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農業経営者ルポ

歩いてきた道に残るもう一人分の「足跡」

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第12回 1995年08月01日

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岐阜県中津川市阿木。中央本線で名古屋から一時間の恵那駅から車で30分。文字通りの七曲がり坂を登り詰めた山間の集落に丸山芳弘さんの温室はあった。
 岐阜県中津川市阿木。中央本線で名古屋から一時間の恵那駅から車で30分。文字通りの七曲がり坂を登り詰めた山間の集落に丸山芳弘さんの温室はあった。

 農業関係者たちの「流行り言葉」でいえばいわゆる「中山同地」である。

 丸山芳弘さんは、全国で10人くらいという事業的規模でのシクラメン種苗生産者の一人。3ヵ所に建てた1500坪の温室でシクラメンの種苗と花、洋ラン、草花類やハープ等を約30種の生産と育種をする農業経営者である。丸山さんと奥さんの美智子さん夫婦に加え今年の7月からは長男の恭一さん(26歳)が経営に参加した。恭一さんは、東京農大を卒業後1年間ハワイのアンセリウム生産農場で研修を積み、さらに、かつて丸山さんが花作りを実践的に学んだ種苗会社・第一園芸で2年間研修してきた。その他に労働力として2人の研修生とパートを6人雇っている。平成3年に株式会社に改組している。


家を離れて自分探しの東京体験


 丸山さんの花作りとの出会いは、高校生時代の昭和34年だった。当時、80aの水田と養蚕、そして山仕事が主体の丸山家で父上の博文さん(81歳)がフレーム温室でのシクラメン種苗生産を始めたことが最初だった。子供時代からカタログを見て種を買い、草花を育てることが好きだったという丸山さんは、その当時から将来は花栽培をしようと考えていた。日本も豊かさを感じ始めてきた時代、これからは必ず花の販売が伸びると確信していたからだ。それ以上に、丸山さんは牛の糞を担いで泥の中に這いつくばってする水田の仕事が嫌だった。同時に、村の精神風土を含めた当時の農家の暮らし方、生き方そのものに違和感の様なものを感じていたようだ。

 高校を卒業するとすぐ、現在の第一園芸の前身である農場に研修生として入っだ。丸山さんにとって、それは花栽培の研修であると同時に、村に育った自分をもっと広い世界の中で見つめ直し確認する過程でもあった。父・丸山博文の長男である前に、岐阜の山村に育った青年である前に、丸山芳弘個人であることを確認する自分探しの研修時代であったのではないか。

 東京から戻ってすぐ、30坪の小さいけど本格的なガラス温室を建てた。さらに23歳で父の博文さんから経営を任された。それからは、ほぼ3年おきぐらいにハウスの増設や設備の更新を進めてきた。予想通り花の需要は伸びていき、売上げもそれに伴った。

 最初は700坪を一つの目標にしたが、世の中の発展や暮らし方に合わせて、ハウスの規模は1000坪、1500坪と大きくなっていった。種苗生産だけでなく、花のシクラメンを出荷するようにもなった。それはより優れた選抜育種をして種苗需要者にたいする評価を高めるためにも有効だった。さらに洋ランの栽培や育種、さまざまな草花類についても育種や生産をするようにもなった。

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