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同伴者たち

「蚕だけが繭を吐くんです」/(株)白松がモナカ本舗 取締役会長 早坂一

「いくら腕がよくても、原料がよくなくてはだめなんだということです」仙台銘菓として知られる「白松がモナカ」を製造販売する㈱白松がモナカ本舗(本社仙台・白松一郎社長)の早坂一取締役会長は、創業者故白松恒二氏(旧姓早坂・昭和29年より白松を名乗る)の菓子づくりの心得をこう伝える。「蚕だけが繭を吐くんだよ、というんですね」
「いくら腕がよくても、原料がよくなくてはだめなんだということです」

 仙台銘菓として知られる「白松がモナカ」を製造販売する㈱白松がモナカ本舗(本社仙台・白松一郎社長)の早坂一取締役会長は、創業者故白松恒二氏(旧姓早坂・昭和29年より白松を名乗る)の菓子づくりの心得をこう伝える。 

「蚕だけが繭を吐くんだよ、というんですね」

 宮城県加美郡色麻村出身の初代白松氏は、小学校高等科を卒業後菓子職人としての道を歩み出し、仙台、東京を始め、全国の菓子店を巡って修業を積んだ。その後昭和6年、同社の前身となる和菓子店を開業。

 ただ初代がそこで売りたかったのはもなかではなく、生菓子などの高級菓子であった。しかし景気の悪い時代的背景もあってなかなか繁盛せず、不振をかこつ日々が続く。そんな中でも、売れ筋として徐々に頭角を現わしてきたのが、同店が安価で販売していたもなかであった。初代はそれを以後のビジネスの主力とすべく、新しく店舗を買い、翌年もなか専門店として再スタートした。これが同社の創業である。

 実のところ、その頃のもなかというものは一般にあまり上等な菓子とは考えられていなかった。というのも、当時の和菓子店が扱うもなかというものは、売れ残った生菓子をつぶして飴を煮なおし、それを皮に挟んでつくるというのが半ば常識とされていたのである。したがって当然味も劣るし、飴の量も少ないことが多かった。白松はそうした和菓子店の副産物的なもなか調製法を排し、最初からもなかのために製飴する方法を採った。

 その方が品質がよくなるのは言うまでもないが、生菓子の製菓↓陳列↓売れ残り↓再加工という、いわば無駄な工程がない分、価格も無理なく低く設定することができた。高品質化と低コスト化を同時に実現したわけである。そしてもちろん、これは原料の持ち味を殺してしまうことなく製菓する方法であるから、自ずと原料である農産物に対する要望、期待は高まることになる。


手をかけたものは 大きな価値を生む


 同社の農業との付き合いは古い。たとえば、初代が北海道伊達市の小豆を調達してきたことなどを皮切りに、直接産地へ赴いて仕入れ、栽培契約を結んでくるなどのこと(ソーシング)の始まりは戦前にさかのぼることができる。現在も飴の原料の小豆、大福豆などを北海道に求めている。これらのは入れについては、業者などに任せるのではなく、役員も赴いて生産者と直接付き合う。

 付き合うというのは、単に商談のために現地に行くということ以上の意味あいがある。たとえば早坂会長は毎年豆類の産地を訪れ、作柄を見聞してくる。

「豆類は連作ができないので、自ずと契約は農協単位になります。以前千歳の農協が、それまでは帯広地方だけが産地とされていた大納言を作ったという。見てみたら納得できる品質だった。それで、買いましょうと契約しました。するとその後”申し訳ないけれどもよそにも売っていいですか”と聞かれた。うちが買わなかった分までどうこう言う筋合いのものではありませんから、もちろんいいですと言いました」(早坂会長)

 この時同社では、白松がモナカが使用している豆であるということが、むしろその産地の宣伝や信用になり、生産物が売りやすくなるならと、同社製品に使用する豆の産地であることを示す看板を圃場に立てることさえ勧めた。産地と川下とでお互いに支えあうわけである。とはいえ、これはもちろん商品力が社会的に認められていて、しかもそれを責任持って継続していける自信がある企業だからこそ言い出せたことである。圃場に立つ川下産業の看板は、各々のつくるものに相互に責任を持つ、彼らの信頼関係の強さを示すものだといえるだろう。

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