ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

新・農業経営者ルポ

素直にやって結果を出す元ヤンキーの一直線農業

「銀座で飲めるような農業をやりたい」。これを口癖に福島県いわき市の和田正人君(44歳)は、就農して5年というのに直播と米麦2毛作へ果敢に挑戦する。規模を拡大しても機械や施設が過剰投資になるのを戒め、ひたすら「田んぼの回転率」を追い求めていく。この農業経営スタイルは、就農前のさまざまな職業遍歴から得た結論である。大震災、大津波、原発事故のトリプル・パンチに挫けることなく、生来のヤンキー気質のチャレンジ精神を発揮して乗り切ろうとするその姿に、新しい農業経営者の誕生をみた。取材・文・写真/土門剛

 この人もまた元ヤンキーである。

 福島県いわき市で大規模水稲に挑戦する和田正人君を紹介するのに、こんなイントロで書き始めたのは、その風貌からである。筆者などは、「連れて歩きたいボディーガードNo.1」と思っているぐらいに存在感は抜群にある。

 元ヤンキーと紹介されるのを、ご本人が大いに迷惑がっていることは先刻承知。でも農業界は、ヤンキー系、番長系、ツッパリ系が幅をきかせてくるようになってきた。そのきっかけを作ってくれたのが、自ら「元暴走族」とカミングアウトして、カリスマ農業者になった和郷園の木内博一君である。

 和田君は元ヤンキー系だけに、人との付き合いは実に折り目正しい。素直な性格で、しかも進取の気性に富んでいる。こうした和田君の人となりから彼の農業経営を探訪してみたい。


トラクタに乗ったことがなかった

 和田君は福島県いわき市四倉町で、1967年生まれの44歳。まだ就農して5年目だ。

 「親父が残してくれたのは、1haの田んぼと、6ha程度の借り地でした。親父が脳梗塞で倒れたときは、地元で働いていました。しばらくは農作業の大半を母親に任せるようなことになりましたが、田んぼで格闘する母親の姿を見て、仕事を辞めて農業を継ぐことにしたのです。継ぐ前は、コンバインと田植え機しか乗ったことがなかった。何でだか知らないけど、親父はトラクタに乗ることだけは許してくれなかったんです。技術もなにもないところから農業をスタートしました」

 いまは25haまで経営面積が増えた。わずか5年で3倍以上の増え方だ。別段、力んでの増やしたわけではないと、本人はこう説明する。

 「農地を集めるのにビラをまいたりするようなことはしていません。両親が集積してくれたものがベースになって増えたものです。いまも両親の努力に感謝しています」

 就農前には、土建、運送、保険、工場、ホテル、飲食と、製造業からサービス業まで多種多彩な職業を遍歴してきた。学校を出てから30歳代後半の就農までの間、ひとつの仕事で3年ちょっとの経験になろうか。これは決して飽きっぽいというわけではない。若者特有の「何でも見てやろう」精神に溢れていただけのことだと思う。

 その職業遍歴の中で印象に残るエピソードは何かと聞いてみたことがある。30歳前に経験した長距離トラックの運転手だという。福島から関西方面へ雑貨を運んでいて、大阪南港フェリー埠頭のトラック・ターミナルで仮眠していたときに阪神・淡路大震災(95年)に遭遇する。

 「あれは直下型の地震でしたから、大きく突き上げるような揺れが1分ほど続いたでしょうか。トラック・ターミナルの仮眠室のベッドに横たわっていましたが、思わずベッドの枠にしがみつきました。それから福島に戻るのが一苦労。当時は、いまほどにカーナビも発達していないし、ネット情報をキャッチできるスマートフォンのようなものもありませんでした。東名高速道路も、中央高速道路も、通行止めになると思い、北陸自動車道に迂回することにしたのです、急がば回れですかね」

 阪神淡路大震災から16年目、今度は東北関東大震災に遭遇する。行動派の和田君らしい希有な経験だ。

関連記事

powered by weblio