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新・農業経営者ルポ

大分の大地に足をつけ日本を変革する国士。

少年時代から「変人」と呼ばれた男は、青年になっても変わりなかった。日本の未来を憂い、大学卒業後に地元の農協へ就職したものの、平凡な日常を過ごす他の職員と自分との間に意識の差を感じた。「いよいよ自分の出番」と、農家の出身でもないのに就農し、「我こそ農地の番人」とばかりに手当たり次第に受託農地を引き受けてきた大分の風雲児である。彼が思い描く未来とは? 取材・文/李 春成 撮影/紺野浩二(編集部)、若宮 祐

 ひとりの日本人として中山間地の農地を守り抜く

 かつて稲葉家のもとで繁栄した城下町は、昼にもかかわらず疲労感が漂っていた。毎年紅葉の季節を迎えると、臼杵市では「竹宵祭り」が開催される。無数の竹製キャンドルに火が灯され、小さな古都をくまなくライトアップするのだ。幻想的な夜に人びとは酔い、語り明かす。筆者が若き“革命家”と出逢ったのは、祭り翌日の週明けだった。

 臼杵湾へ揚げられた魚に舌鼓を打ちながら、後藤慎太郎の携帯電話はひっきりなしに所有者の声を求めた。そんな慌しい合間にも、彼のトーンは落ちる気配を見せない。

 「高校生から大学生にかけての頃、朝鮮半島情勢の緊張や飼料価格の高騰などをきっかけに、国のあり方、そして国の大本たる農業がどうあるべきか、いろいろ考えていました。 世間では“右翼”と呼ばれるような思想家たちの本を読みあさった時期もあります」

 大学卒業後の就職先として、大分市農業協同組合を選んだ。農協で働くことが日本農業を変える近道になるのではないかと思ったからだった。しかし、実際には大学時代に宅建取引資格を取得したこともあり、主に不動産部門を担当し、農地転用手続きや資金融資業務に携わる日々を送る。肚の底で沸々と募る違和感は拭えないままだった。

 「同僚の多くは有力な組合員の2代目です。給料がもらえるところとして農協を選んだだけで、農業に対する問題意識もなかった。ボクの居場所なんてありませんでした」

 そのような環境に身を置けばこそ農業への思いが高まっていった後藤は、農産物マーケティングを学ぼうと大分大学大学院経済学科に社会人入学を果たした。昼は農協、夜は大学院とハードな2年間を過ごし、2003年春に修士課程を修了する。また修了と同時に農協を退組し、イタリアへ短期留学した。ちょうどスローフードがもてはやされた時代だった。帰国後、直売所「木の花ガルデン」経営で知られる大分市大山町農協に勤めることになったが、わずか3カ月で退めている。

 機が熟したことを悟ったのだ。

 「いよいよ自分が、現場でやるしかなかったんです」

 当時、後藤の父親の益喜は金融業、母親の澄子は人材派遣業を営む個人事業者だった。好きな仕事をしている両親の後ろ姿を見て育ったからか、何らのためらいもなく、自らの志を実現するために起業した。

 「実際に地に足をつけて農地を守る、あるいは耕作放棄地を再生することで、日本人としての役割を全うできるんじゃないかと思うようになったんです。地元から離れて都会で悠々と暮らす若者もいます。そんな彼らにも『後藤さんが頑張ってくれてるから田舎は大丈夫だ』と、そう思ってもらえるだけで嬉しいです」

 36歳の新風が力強く続ける。

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