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新・農業経営者ルポ

大分の大地に足をつけ日本を変革する国士。



 「世間が“グローバル”だとか“TPP”だとかいって海外に目を向けている中で、ボクは、今自分がいるこの中山間地、そこにある水田を中心とした農村の風景に、日本人としての心の拠りどころがあるという思いを強くしています」

 就農者の高齢化や離農が進む中山間地について、農水省は直接支払や集落営農組織化などで策を講じてきた。だが、経営者育成策はおろそかにしたために、ほとんど効果を上げていない現状がある。いわばこの国難を乗り越えるため、誰かが“革命”の狼煙を上げなければならない時代が到来していた。


志と現実との試行錯誤を続ける日々

 他界した祖父名義の水田5反、畑8反から後藤の挑戦は始まった。

 「平成の大合併」で臼杵市に編入されたが、本拠とするのは、同市南部の野津町だ。京都の一休、熊本の彦一とならぶ頓知者・吉四六の出身地として知られる。殿様の頭に鳥の糞が落ちたのを見た家来が、「お代わり」と言って首を差し出したという有名な頓知話がある。

 後藤が(有)西日本農業社を設立したのは、大分大山町農協を退めてからおよそ半年後のことだった。日本地図を俯瞰した時に、滋賀県を境にして、南へ下ると中山間地の面積が増え、耕作放棄地も増えていく。後藤には「西日本」と呼ばれる地域の農地を守っていく役割を、この野津町を出発点に果たしていきたいという思いがあった。そこで社名に「西日本」を冠したのだった。

 後藤は、計算よりも気持ちが走ってしまうタイプなのだろう。社名のスケールの大きさのわりには、創業の時点で用意できた農地は、ごくごく小規模だった。創業以降は離農者から農地を譲り受け、地域の高齢農家や兼業農家から作業を受託されるなどして、その規模は年を経るごとに倍々ゲームのように増えていった。その一方で「農協で自分たちのコメがよそのものと混ざるのはイヤだ」という農家の声を聞き、自前のライスセンターを建設する。また獣害対策のため、水田を囲う金網や鉄柵を購入した。公庫融資を受けられたとはいえ、自己資金もかなり額を投入したのだった。

 「儲からない仕事をたくさんしているので、経営者としては失格かもしれません。ただ、『自分は社会起業家だ』という意識が強くて、国が守れない農地を代わりに守っている、という自負があります。中山間地が抱える農地の問題を解決していくのが西日本農業社の使命です。強い思いがなければやってられません」

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