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新・農業経営者ルポ

すべてを受け入れて、前に進む 東北の農業経営者魂ここにあり



 「専門家だって最初は素人。工業大学を出ていたって、図面見て新しい機械に触れたときは素人から始まる。高校しか出ていなくたって、同じ人間だから、やればできるようになると思ってるから」


黒字だった養豚をやめて農作業の受託による経営へ

 宮城県栗原市で60haの水田を経営する伊藤は11代目にあたる。地主の家系ではないとのことだが、長男である彼は学校を出たら農業を継ぐものだと思っていた。当時、全国で6校指定されていた農業パイロットスクールのひとつであった宮城県立加美農業高校を卒業後、就農する。

 家業の農業を手伝う一方、時間のあるときに、埼玉県内で工作機械を製造する工場を営んでいた叔父の仕事を手伝った。手伝いをするうちに、工作機械の面白さに目覚め、旋盤や切断機、溶接機などの使い方にも通じていった。そして、徐々に機械化が進んでいった農業にもこれらを生かしてやろうと考えるようになった。

 また15頭ほどの豚を飼った時期もあった。経営はそれなりに順調だったが、しばらくするとデンマークからチルドポークが入ってきた。チルドポークは部位別の製品だったが、日本では当時は豚の取引は1頭単位だった。

 「これではかなわないと思った。日本もいずれは部位別になるだろうが、今のままでは規模を大きくしないと、そのうちやっていけなくなる」

 「それだったら……」と考えた末、伊藤は、集落で一番後に始めた養豚を、最初にやめることを決断した。

 同時に、コメ単作でなんとかやっていけるのではないかと見通していた。その根拠は、増えつつあった周辺の兼業農家の作業受託だった。1980年、30歳のときに稲作一本で行くことにした。

 栗駒町の隣町である鶯沢町には鉛、亜鉛を産出する細倉鉱山(現在は閉山)があり、周辺の農家は関連企業に勤務するなどして兼業化が進んでいた。そのため農家の金回りもよくコンバインの普及率も日本一だった。しかし、伊藤はだからこそコメだけでやれるのではないかと考えたのだった。

「鉱山もこのままのはずがない。機械があっても農業をやり続けたいというような人も減っていくはずだ」
 鶯沢町の知り合いからの依頼を皮切りに、受託された田圃での農作業を引き受けることによって経営面積を拡大していった。

 仕事の丁寧さが評価されて口コミでうちの田圃もやってくれないかという依頼が彼のもとに寄せられ、委託作業を始めた年に倍になった面積は数年のうちに、さらにその倍という勢いで増えていった。農協への出荷量もトップになった。その頃、父親も農協の組合長を務めた

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