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【新・農業経営者ルポ】
グローバル化で生き残る農業
- 長島農園 代表 長島勝美
- 第96回 2012年06月15日
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学生時代からビジネスに携わる
兼業農家に生まれた長島。農業を選んだのは中学3年の進路決定の時だった。もともと植物が好きで、近くの山で採ってきたエビネ蘭や春蘭を自分で鉢に植え替えて育てたりしていた。
「いまでいうオタクかも。好きなことしかやらなかった」
熱中ぶりを見ていた中学校の先生が農業高校への進学を勧めた。
「農業はいいぞといわれて。両親や進学塾の先生は反対しましたが、迷いはなかった」
神奈川県立中央農業高校の草花コースを選択し、組織培養に代表される生物工学(バイオテクノロジー)を学んだ。大学時代には蘭のビジネスで知られる園芸会社にも出入りし、学生の身でありながら仕事をした。いまでいうインターンシップだ。
「東京ドームなどでおこなわれる蘭展のイベントの企画、運営なんかもしていました」
イベント運営の責任者として自ら事業計画を作り、会社の承認を得て、運営にあたった。大学進学後も、大手広告代理店と人間と一緒にイベントをつくりあげていった。
家の近くには港もありヨットのクルーもやっていた。ヨットの所有者である大企業の幹部と顔なじみになり「君は将来どうするの?」と聞かれ「海外を見ておきたい。アメリカかドイツかな」というと「ドイツがいいよ。ヨーロッパの中心だから。私たちがヨーロッパに支社を出すのは西欧にも東欧にも行きやすいデュッセルドルフだよ」
自身もドイツに興味があった。EUがうまれたのは、研修に行く2年前の93年。
「やがてアジアにもこうした経済圏ができるだろうと思った。ドイツは日本とは戦後処理の方法も異なっていたし、90年までは東西に分かれ、異なる経済圏があった。いろんな意味で日本との違いを知りたいと思った」
大学卒業後、国際農業者交流協会の派遣事業に応募。高校、大学で学んだ花の技術を極めるにはオランダ、デンマークのほうが適していたが、長島はドイツにこだわり、花と野菜の複合経営農家に派遣された。
念願のヨーロッパでの研修
研修に入って10ヶ月後、農場主から「農場経営をやめます」と告げられた。研修終了まで2ヶ月が残っていた。このいさぎよい農場主の決断が長島には衝撃だった。
長島が派遣される前年、農場主だった夫が亡くなり、夫人が後を継いでいた。といって負債があったわけではない。経営は健全だったが利益が出ていなかった。農場の大半を息子に売却し、半分は他の農場主に売却した。
てん末を見ていた長島は、“やめたいときに退くことができる農業”があるのだと気づいた。日本でこうした農業を見ることはめったにない。高齢になろうが赤字であろうが続けること自体が目標になっている農業。借金がかさんでも、返済のために続けざるをえない農業。そうした農業とは対局にあった。
「健全な状態で次の世代に引き継ぐ農業。農家でなく、農業者としての姿を見たのです」
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長島勝美 ナガシマカツミ
長島農園
代表
1972年生まれ。日本大学農獣医学部農学科卒業後の95年4月から、ドイツ・ミュンヘンで1年間の農業研修を受ける。帰国後、実家の農場を継ぎ、120種類の野菜を栽培し、地元の百貨店、生協、スーパーに6割、残りを東京、横浜および地元のレストランに販売している。経営規模は2.5ha。年間売上額約3,000万円。ドイツ人のフランチスカ夫人との間に二人の子供がいる。労働力は本人、夫人、両親と3人のスタッフ。
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