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フーテン人生の無邪気な視点

神のいない祭り

昼の定食屋で「ご飯は少なめに」という声を聞くと、米の大事さを躾けられた世代だなと心が和む。これは、米を残飯にしてしまうことなど許されないとする子供時代の刷り込みがあるからだろう。そして、その真の理由とは、経済的理由か、節約観念か、お百姓の努力に報いるためか、はたまた潜在的な稲魂信仰か。
 日本人と米との関係は神道に根差す神の文化として成熟していた。東南アジアの穀倉地帯に広がる稲魂信仰。稲魂をないがしろにすると、稲魂が怒って逃げてしまい、翌年の稲に稲魂が宿らず不作になるといわれたものだ。

 「古事記」や「日本書紀」では稲魂を「ウガノミタマ」とか「ミクラタナのカミ」と呼び、稲の精霊は神とされていた。今なおどの穀倉地帯でも昔からの習慣が続いており、食前は仏前と神棚にお供えをする。

 しかし、都会の我々といえば、仏前や神前に供物をするのはせいぜい盆暮れと彼岸くらい。これでは稲の精霊は食を求めてどこかへ逃げてしまうに違いない。

 供物をしない現象は欧州では400年ほど前の宗教改革から起きていた。もちろん、キリスト教と融合した欧州の土着信仰では季節によって豊穣を願う祭りは今でも続いているが、日常的に供物を捧げる習慣は廃れて久しい。

 何も神様がダイエットをしているわけではない。神が抽象的な存在となり、そのコミュニケーション方法が祈りのみへと変化したのが現在のキリスト教なのだ。イスラム教も元来供物は捧げない。日本の神々は供物を捧げると、我々に五穀豊穣をもたらす人間くさい連中なのだ。

 ちょっと前まで我々の日常食は単調で粗末だった。ただ、盆暮れ正月と新嘗祭のハレの日だけは、普段は口にしない節料理を作り、長時間の食事を楽しみ、祭りの行事の一つとして人間と神々が共食してきたのである。

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