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特集

伸びるぞ!府県の畑作野菜経営
なぜ今、府県の畑作野菜経営に注目するのか

【アメリカ農業を夢見てスタート】

 今から25年前、私と佐々木、竹内は農村青年が共同で学習活動を行う4Hクラブの仲間であった。酒を飲んではこれからの農業を議論し、その挙げ句に行き着いたのが、「アメリカのように大規模で、しかも企業的にして、給料をもらう」という農業経営だった。昭和50年からその実現を目指しチャレンジを開始した。

 しかし、我々の周辺には、そのような夢を可能にする農地はなかった。あらゆる手づるを使って探し求めた土地が、私の実家がある柏村より70kmも離れた深浦町の荒れた農地であった。

 ところが、経営を始めるまでには難関がさまざまな形で横たわった。

 まず、よそ者へ農地を売るとは何事だ、という声が深浦町の町民からあがっだ。これに対し、我々は、実りの大地にかける意気込みを真摯に説明し続けた。その甲斐あってか、ときの松浦武町長の決断のもと、我々への農地譲渡がなされた。とはいうものの、こうしたいざこざがたたり農地の取得面積は当初の100haを大幅に下回る30haに減少し、アメリカのような規模どころでなくなった。

 この農地の取得と、営農機械施設の導入のために、1億円近い資金が必要となった。低利の農林漁業金融公庫資金で間に合わせるつもりだったが、25歳前後の若造に過ぎない我々には担保がなかった。頼るは親のみだが、その親たちも案の定、猛反対であった。小規模で着実な農業経営をしていた親たちからすれば、我々の計画は夢物語にしか過ぎないというのである。説明は難渋を極めたが、購入予定農地の中で、条件のよい農地だけを親たちにみせるなどして、どうにか、了承を得た。

 だが、親の反対などもあって、夢を語肛合った仲間は少しずつ離れ、この共同農場づくりに参画したのは最終的に4人にとどまった。寂しさを感じたと同時に、物事を成す厳しさを味わった。

 昭和51年1月、農事組合法人黄金崎農場として法人登記し、3月26日から営農を開始した。我々の実家から70kmも離れていたため、深浦町内の民宿に泊まりがけであった。現在も宿泊農業であり、離れ離れの生活に耐えてくれた妻や子供たちには感謝の言葉すらない。

 入植地は、耕作放棄されてから年月がたっていたため、原野化していた。このため、死に物狂いで開墾作業を行なった。視察に訪れ九松浦町長には「鬼のような形相だな。体をこわすなよ」と言われた。作物は、スイカ、メロン、加工トマト、ダイコンをメインにしたが、バレイショ、ニンジン、アスパラガスなど、さまざまな野菜も試験的に取り入れた。作業が間に合わず購入農地30haのうち作付けしか面積は21haにとどまった。

 期待した1年目であるが、予想しなかった濃霧日の連続などで生育が遅れ、スイカ、メロン、ダイコンの価格も低迷したため、売上は3000万円の目標を大きく下回る2000万円にとどまり、簡単に収益を出せないという新たな苦しみが始まったのである。


【経営方針転換】

 入植して2年目、作付けを倍増した。主力のスイカ、メロンの価格が低迷したものの、生育が全般に良好だったため、売上は倍増した。しかし、この年も赤字となった。ただ、漬物メーカーの指導で一次加工したダイコンの仕上げがよく、加エダイコンヘの自信が芽生え、これがのちのち農場を支えることになる。

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