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新・農業経営者ルポ

お天道様とお客様 ビジネスとしての有機農業

料理名ではなく調理する野菜名だけが書かれたメニューを出すフレンチレストランがある。多分、日本では農家・松木一浩が経営するレストラン・ビオス(Restaurant Bio-s)だけであろう。農家であればこそ可能なもてなしのかたち。それは農場を始めて12年、緑の農地に囲まれたレストランを始めて3年目にして叶った松木の一つの夢の実現だった。撮影・取材・文/昆吉則

 松木が経営する「ビオファームまつき」のホームページにはこう書いてある。

 「富士山のふもと、水と自然豊かな静岡県富士宮市。恵まれた自然環境の中、一切の農薬および化学肥料を使わずに有機肥料だけで、旬の露地野菜を中心にハーブ類も含めて年間60品目以上の野菜を育てています。ビオファームまつきの毎日は畑とともにあります。自分たちの手で育てた野菜がどのようにしてお客様にたどりつくか…。そこまでの様々な物語を自分たちの手で作っていきたいと思っています。そのすべてが私たちの「農業」のかたち。農家だからできる、農家でしかできない、そんな農業の楽しさをビオファームまつきから発信します。ここ富士宮から、日本の新しい農業へ向けて!私たちの願いが届きますように……。ビオファームまつき 松木一浩」

 ホテル学校を卒業してホテルに入社。以来、レストランサービスの世界へ。フランス料理を担当。90年にフランスへ渡りパリのニッコー・ド・パリに勤務。そこでフレンチレストランサービスの真髄に触れる。帰国後は銀座のフランス料理支配人を経て、恵比寿の「タイユヴァン・ロブション」の第一給仕長を務める。

 フランスで文化のレベルまで高められたレストランサービス。子供時代から人と触れ合い、人を喜ばすことの楽しさに気付いていた松木にとってそれが天職だと言っても良い仕事だった。休みが欲しいと思うより仕事が楽しかった。

 でも、そんな暮らしの中で仕事そのものというより、忙しく働く生き方、暮らし方への違和感のようなものが心の中に膨らんできていた。仕事が嫌だったわけでもなく、相変わらず仕事に熱中していた。でも、それまで当たり前であり、それこそが高級レストランのあるべき姿と思って信じて来たレストランサービスの姿、例えば、ドーバー海峡のヒラメや西洋野菜を空輸し調理して、サービスするというようなことに、なにか虚しさのようなものを感じるようになっていたのだ。松木自身は自覚していなかったが、いわゆる“燃え尽き症候群”だったのかもしれない。

 松木は17年間夢中になって身も心もささげて来たレストランの仕事を辞め、農家になる道を選んだ。1999年、松木38歳の人生の転換点だった。

 雑誌などで調べて探し出した栃木県の有機農業の農場に研修生として働くようになった。それまで都会の専業主婦として暮らしてきた妻は、松木の心の変化を察していたらしく、彼の人生の選択に異を差し挟むようなこともなく、笑顔で許してくれた。

 約2年間の修業生活の後に、現在の静岡県富士宮市の中山間地に40aの土地を借りられることになり、そこで農家としての暮らしを始めた。妻の実家が静岡市にあり、以前から釣りのために訪れたことのある場所でもあった。また、芝川町(現在は富士宮市に編入)は同じ静岡県内でも東京に近く、野菜の営業をするのにも都合が良かろうと考えた。

 当時を振り返って松木は笑う。

 「今考えると恥ずかしいけど、当時の自分は、本気で農業をやっている人に言わせたら怒られそうな単なる“田舎暮らし”憧れ派で、仕事を捨て、町を捨てて仙人になる様な気持だったのです」

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