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「祖父は、戦後復興が始まり、時代が変わっていく中で、自分で作ったものは自分で売りたいという思いを強く持っていたんだと思います。農協への出荷はあまり積極的にしないで、祖母と一緒にひき売りに出て、経営を成り立たせていました」
まだ食糧管理法があり、農村のしがらみも強く残っていた時代である。しかし、「作る」だけでなく、「自ら売る」ということにこだわり、「生産者」という立場を超えようとしていたのだろう。村に、そして農家に産み落とされたままに生きるのではなく、時代やマーケットの変化の中で、新時代の農業者として「自ら生まれ直す」ことを選んだ祖父だったのだ。それは祖父の時代以来、脈々と引き継がれてきた黒野家の家風となっている。また、特に販売では、祖母、その娘である叔母、そして黒野家に嫁いだ母たち女たちが活躍してきた。黒野家の農業を支えてきた販売は女たちがリードしていたのだ。瀬戸物工場や住宅街などに曜日や時間を決めて訪ね、なじみとなって顧客を増やしていく才覚は女たちのもの。祖父の時代から男は農作業と車の運転が役割で、客と接するのは黒野家の女たちだった。
今では、ひき売りから敷地内で直売をするようになったが、貴義には、自分の家のやり方を自然に受け入れるきっかけとなった記憶があると話してくれた。
「子供の頃、桃の直売をしていて、買いにきたお客さんがありがとうと言っているので驚きました。お金を払っているお客さんが、なんでありがとうと言うんだろうって」
それが商売なのであり、黒野家の女たちはそれを体で知っていた。
幸運を呼ぶ父、一郎の人柄
お客さんの面前には立たないが、商売のセンスに長けていた祖父は、食糧管理法時代の中、時代の変化を感じ取って小規模ながらも精米設備を含めた乾燥調製施設を導入した。それを引き継ぎながら桃の栽培を始めたのが父、一郎(63歳)だった。豊田市という日本でも最も兼業先に恵まれた地域にいて、他の農家が兼業に向かう時代でも一郎は農業者としての道を選んだ。
ひき売りのために、かつてはコメとともに様々な野菜を作っていたが、産地化していた桃に取り組み、水田も増やしていった。近隣農家は豊かな兼業収入で機械化し、コメ作りを続けていたが、それでも少しずつ農業から離れていった。実は、一郎はひき売りでお客さんに愛想を振りまくのは苦手だった。
そんな頃、突然、一郎が夢見ていた稲作の大規模化が実現する。降って湧いたような幸運だった。
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黒野貴義 クロノタカヨシ
有限会社はっぴー農産
取締役
1979年12月、愛知県生まれ。98年、東京農業大学短期大学部生物生産技術学科に入学。00年、東京農業大学国際食料情報学部食料環境経済学科に編入学。大学卒業後の02年、石川県の(株)ぶった農産で研修。「農家」ではなく、「農業経営者」としての姿勢を学ぶ。03年に実家の(有)はっぴー農産の取締役として就農。就農当時は27haだった経営面積は66haまで増加。今後さらに依頼される面積が増えてくる状況の中で、いかにして地元の農地を守り、活かす仕組みを創るか、日々模索中。
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