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新・農業経営者ルポ

未知の領域に挑み続けるミディトマト業界の先駆者

トマト市場において、あまりスポットが当たることがない中玉トマト。その中玉トマトを栽培する奥松農園・奥松健二は、「太陽美人」のブランドを確立。宮崎空港で糖度8度以上の甘いトマトとして評判を呼び、作物は空港の顔として注目されるようになった。そして今、新たにIT企業との共同事業「宮崎太陽農園」を立ち上げ、新しい挑戦に打って出る。その軌跡と胸中を追った。取材・文/鈴木工 撮影/浅川芳裕 写真提供/奥松農園

 ハウスの中を覗くと、健やかに伸びた茎と葉が緑色のカーテンを張りめぐらせている。その中に明るいグリーンから鮮やかな赤まで、小さな球体が見え隠れしていた。

 トマトは成熟段階によって、目まぐるしく色を変えていく作物だ。緑から白。白からクリーム色。そしてオレンジを経て赤へ。その度合いを確かめるかのように、奥松健二は屈んでトマトを凝視していた。

 宮崎市の中心地から北に向かって約10km。リゾート施設・シーガイアからほど遠くない場所に、奥松が営む奥松農園はある。都道府県別のトマト生産量が全国13位の宮崎県(平成21年)で、奥松農園が主要作物にしているのは中玉トマトだ。

 各地でハウス栽培が行われるトマトは、200g前後の大玉トマトを中心に発展。近年は10~30gの小玉トマトがさまざまな果形や多彩な色合いを売りに、ミニトマト、フルーツトマトとして人気を集めてきた。その中でミディトマトと呼ばれる中玉は、地味な存在である。大玉と小玉の間のサイズが中玉として扱われ、品種によって大きさはまちまち。小玉に比べると糖度が高いイメージもあまり流通していない。取り扱いしていない店もあるため、農家が売り先を見つけられず数年でやめてしまうケースも目につくという。しかし奥松はそんな中玉を手がけ、「太陽美人」「甘熟姫」といったブランドを確立。業績を伸ばしてきた。

 しかしそのスタートは、ほぼゼロに近い状態から始まっていた。

 1955年、宮崎県で生まれた奥松の実家は、コメ7反、葉タバコなどの畑6反を営み、牛を2頭飼う農家だった。しかし奥松が小学校6年生の時、父親が体を壊し、農作業が困難に。親類が農場を見ながら、母親による農協出荷所のパートが家計を支えるようになった。

 農業のきびしさを身を持って味わったからか、父親は奥松に対して農業を継がずサラリーマンになれと説いた。しかし「自分は気が短いから人に使われるのに向かない。農業しかないだろう」と考えていた奥松は、高校卒業後、父親の反対を押し切って就農。出荷所を辞めた母親とともに15aのハウスを始めた。家にトラックがないため、クーペの後ろを開けてシートを引き、牛の餌を運んだ。

 その後、地区の青年団で文化部長として祭りを成功に導いた奥松は、事業計画の面白さに目覚める。そして就農から10年。農業青年クラブのリーダーを卒業し、新しいビジネスチャンスを模索していた。その時、ふと開いた農業雑誌で愛知県の作業受託業者の記事を見かける。職種に可能性を感じた奥松は、飛び込みで話を聞くと、宮崎に帰って作業受託のグループを作った。

 チラシを配って、育苗の注文を取ったところ、6500箱のオーダーを獲得。滑り出しは上々だったが、本来薄蒔きによって丈夫にする苗を、指導員が肥料を入れる指導を怠ったため、もやしのようにヒョロヒョロした苗ができあがってしまった。いきなり躓いて、依頼した農家から叱責されたグループは自然消滅。奥松は先導した責任を取るため、育苗に使用する資材を全部を買って支払いに奔走した。

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