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新・農業経営者ルポ

未知の領域に挑み続けるミディトマト業界の先駆者



 翌年から一人で作業受託を再開した奥松は、生産者と農協で手を組み、農協の育苗に取り組むグループを結成。最高で注文は9万6千箱にも達したが、ピークを迎える頃から米価が下がり始める。

 「これは10年は続かないだろう、自分で何かブランドを作らなきゃいかんと思った。それで最初に試したのがキュウリ。でも味じゃなくて鮮度が勝負で、どう作っても糖度が4.5~5以内に収まるから差別化には向かなかった。次に挑戦したメロンは静岡、愛知でブランドが確立されてるから、なかなか割って入る余地がない。それに1~2aの規模のハウスだと温度管理して分けて作ることができないので、まとめて作って収穫すると1週間くらいでしおれていく。相場も博打ですよ。結局5年間やって、あまりうまくいかなかったね」

 試行錯誤する中で、出会ったのがトマトである。育苗のために借りていたハウスの中にミニトマトの農家がいて、そこのトマトがおいしく興味を覚えた。自分で作ってみると、栽培方法によって全然糖度が違う。トマトであれば継続的に出せるから、相場にもあまり左右されないだろう――。奥松の瞳に、トマトが赤く光って見えた。

 1999年、奥松は地域で10人ほどのグループを組み、JTが開発した中玉トマトの新品種の栽培を1.7ha使って始めた。しかし卸業者が中抜きしてしまうため、儲からない。1年でグループから抜けた奥松には、2800万円の借金が残った。

 しかし奥松が離脱したのには、ひとつの確信があった。契約栽培と並行して、個人的に3aのトマト栽培を開始。それを地元スーパーに卸したところ、消費者から「おいしい」と高い評価を得たのだ。

 「JTの契約栽培の一件で、ただ作ってるだけじゃだめだ、と思った。それで小売に直接販売するようになったら、買う人の声が届いて面白くなって。最初は相場より少し高い程度のキロ400円で卸して、だんだん値を上げていきました」

 さらに販路を拡大するため、奥松は名簿を調べ、九州中の生協にトマトを送りつける手段に出た。反応は断られるか無視されるかのどちらかだったが、唯一、連絡を返してきたのが鹿児島生協だった。当時の担当者だった西河路喜英は振り返る。

 「食べたら非常に甘くておいしかったので、すぐ連絡して共同購入のカタログに入れさせてもらいました。農家さんって営業が得意じゃないから、向こうから売り込んできて、採用することってあまりないんですよ。でも奥松さんは取引するようになってこちらから電話すると、各地に出向いて営業していることがよくあった。商売と生産がバランスよくできる方だな、と思いましたね」

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