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【ルポ再訪 あの時代、そして今】
原野菜生産からトマト作り、そして海外へ 農業を舞台に新しい人生の「作品」作りに挑む
- 雲の上のトマト 代表 高見澤憲一
- 第1回 2012年11月14日
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すでに80年代末のバブル崩壊後の、いわゆる日本の“失われた20年”は始まっていたが、20年間の日本の社会そして農業界の変化は、その中にいた人々にとっても観察者としての筆者にとっても隔世の感がある。
本誌のカバーストリーに登場した農業経営者の数は200人を超えた。その多くは、ますます事業を発展させてきたが、ある人は亡くなり、またある人は農業から撤退した。そこにご登場いただいた方々は、その時代に筆者が「農業経営者」というタイトルの雑誌でこそ紹介したい経営と生き様を示していた人々だった。そんな人々の今を再訪したい。
高見澤憲一さん(51歳)を農業経営者ルポでご紹介したのは、本誌が季刊発行から隔月刊になって間もない11号目(1995年6月発行)の誌面である。高見澤さんとの最初の出会いは、さらにその2年半前。この雑誌を創刊する前だった。当時、スガノ農機が日本農業新聞に広告として掲載していた、スガノの営業マンと農業経営者たちの出会いをルポする記事を書くために訪ねた時のこと。農業新聞に書いた記事の内容は忘れてしまったが、本誌11号で高見澤さんにご登場いただいた理由は、彼の生き方こそが「農業経営者」という新しい農家の生き方を示していると思ったからだ。
余談になるが、創刊当初、農業団体に勤めていたある人に、「“農業経営者”というのは、自分の都合だけを考えて儲けに走る人物のことではないか。そんな雑誌名は良くない」と言われたことがある。それが当時の農業界の認識だった。農業とは人々の暮らし方であり、風土だけでなく“地域”の共同と助け合いによってこそ成立している。その中でひとり自らの道を見出そうとするのは、いわば横紙破りの振る舞いだ、という認識が強かった。現在でも、農業に関わる多くの人々は、農業経営者という言葉で単に耕作規模や売上の大きな農家をそう呼んでいるケースが多い。あるいは、農家の戸主のことをそう呼んでいるようだ。
若い読者は笑うかもしれないが、創刊当初、そしてある意味では現在でも、本誌の重要なテーマは、「農業経営者とは何か?」ということである。それを読者になっていただいた方々とともに、その自己確認作業をすることだった。風土や地域の人々との関わり、時には人々との軋轢もある中で自らの道を切り開いていかねばならない者の覚悟を質し、そして励ますというのが当初の「農業経営者ルポ」、そして本誌の目的だった。
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高見澤憲一 タカミザワケンイチ
雲の上のトマト
代表
1961年生まれ。専門学校を卒業後、東京に出てCM美術の仕事に就く。24歳で長野県南牧村にUターンし、両親とともに農業を始める。8年前よりトマトの試験栽培を始め、高原露地野菜を徐々に縮小し、2012年よりトマト専業に。冬場は中国やフィリピンなど海外に渡り、野菜作りを指導。「雲の上トマト」代表。
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