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危機に直面する伝統産地 そこにある問題と可能性

電照菊(その3)情熱の足跡

全国で菊の生産量が減少の一途をたどる中、そのことをよそに大分県は増産を続けている。8年前、一人の偉大な農業経営者がある思いを胸に秘めて愛知県田原市からこの地に入植してきた。彼は大分県で新たな経営者を生みながら、マーケットを基軸とした菊づくりの輪を着実に広げつつある。その背中は、消費の減少や重油の高騰で悲鳴を上げる東三河という巨大産地に、何を語りかけてくるのだろうか。情熱の足跡をたどった。

夢をかなえるため渥美半島から新天地へ

 まるで一般企業の社員食堂のようだ。10畳ほどの厨房の向こうには、6人がけのテーブル6台が置かれている。扉一枚で食堂とつながっている同規模の部屋にはホワイトボードや机がある。この建物に隣接するのは9人が寝泊まりできる宿舎。一人の農業経営者が所有するには随分と大きな研修施設だ。

 いったい、この施設でどれだけの人たちがともに食事をし、菊づくりに汗を流し、そして農業経営者として巣立っていったのだろうか。そのことを質問したい目の前にいる笑顔の主と一緒に、出して頂いた昼食を口にしながら、前号で紹介した愛知県田原市でマムを作る渡会芳彦さん(47歳)から聞いていた言葉を思い出した。「小久保さんはもはや農家というよりは企業家ですよ」

 小久保恭一氏(60歳)。菊業界でこの名前を知らない人はまずいないだろう。1980年代から90年代にかけて、渥美半島が電照菊で隆盛を極めていく時代に立役者となった人物である。

 JA愛知渥美町(現在のJA愛知みなみ)の周年菊出荷連合の二代目だった頃には、2010年代に日本人の死亡率がピークを迎えることを見据え、菊を葬儀花として定着させる営業活動を展開。花の取扱量で日本一を誇る(株)大田花きと連携して、菊こそが仏花というイメージを日本に根付かせた。

 さらに育苗から調製、箱詰めまでの一貫体制が生産者にとって常識だった当時。取材に来た新聞記者に対して、「これからは国際分業の時代になる」と言い切った。実際に大手商社の丸紅を通じ、ブラジルから苗の輸入に着手する。今や海外から安い苗を仕入れ、調整や箱詰めはJAに任せ、生産者は菊づくりに専念するというスタイルは当たり前になった。

 まさに先見性と実行性においては比類がない。前号で紹介したマムの日常的な楽しみ方を伝える経営者として先頭を走る渡会氏さえもが、「雲の上の人」と仰ぎ見るほどだ。

 その人は今、生まれ育った田原市ではなく、縁もゆかりもなかった大分県豊後大野市で妻や娘夫婦らと暮らしている。島内の至るところに陽光が降り注ぎ、一年を通して温暖な気候に恵まれた渥美半島とは打って変わり、山河が織りなす陰影が印象的な集落に8年前に移り住んだ。そして、輪菊を生産する(有)お花屋さんぶんご清川を設立する。田原市にある8000平方メートル(現在は1万1200平方メートル)の農場は息子の恭洋さん(35歳)に任せてきた。

 「年をとったら退かないとだめ。自分がいると息子が伸びないからね(笑)」。本誌03年3月号の「農業経営者ルポ」で入植前の心境をこう明かしている。まるで隠居宣言。だが、これ以後の彼の軌跡をたどれば、この発言は一面の本音に過ぎなかったことが分かる。

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