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新・農業経営者ルポ

意地と度胸で国境を越えた日本産米輸出のパイオニア

  • (株)新潟玉木農園 (株)エバーフリー 代表取締役社長 玉木修
  • 第104回 2013年02月15日

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 農業をやってみたいという気持ちが芽生え、父・森雄の応援もあり、隣県・富山県南砺市にある農事組合法人サカタニ農産の門を叩く。中学校卒業翌々日から翌年春の、わずか1年間を過ごしただけだが、多感な時期だけに多くを吸収することができた。その後、地元に戻りいくつかの仕事を経験した後、20歳で就農。転機が訪れたのは24歳の時だ。父親から経営をバトンタッチされたのだった。森雄は55歳で、普通に考えれば息子にはまだ経営を譲らない年齢だが、その決断に踏み切ったのは、15歳にして農業で食うという覚悟を決めた玉木の働きぶりに何か感じるものがあったのかもしれない。

 だが、経営内容は盤石ではなく、資金繰りに追われつつある状況にあったと玉木は当時を振り返る。

 「親父が兼業でやっていた時には自作地は6ha、自分が就農する時には離農する人が増えたので15haになっていた。新食糧法以降は関東関西方面の米屋と直接取引していたし、特別栽培米として差別化したりして、最初はそれなりに良かったはず。だけど、米価は急速に下落していったし、生産調整にも参加してコメは半分ぐらいしか作っていなかった。特栽米だって他の農家もやれることだから強みはならないわけだから、『これはまずい……』と思った」


たった10kgの精米を携え、未知の地台湾へ

 経営を任された自分にできることは何かを問うた。すぐには答えが出なかった。1年間、考え続けた玉木の頭に浮かんだのがコメの輸出だった。そうして、2005年6月、田植えが終わった直後、玉木は単身台湾に渡ることになった。

 なぜ輸出先を台湾としたのか。台湾も日本と同様、コメが主食である以上、この地に顧客がいると判断したこと、著しい経済成長を遂げていること、富裕層が増えてきていることも理由としてあっただろう。だが、それ以上に、玉木が興味をそそられたのは、台湾という国の、貿易体制の大きな変化にあった。

 台湾は02年にWTO(世界貿易機関)に加盟し、翌03年にはミニマム・アクセス制度から関税割当制度に移行し、コメ市場の開放が日本とは異なる形で進んでいた。玉木が初めて台湾に渡った頃からスーパーの棚には、自国・台湾産のコメだけでなく、米国、タイ、ベトナムなど世界中のコメが並んでいた。言うなればコメのオリンピック、ワールドカップが開催されていたのだ。

 世間では日本のコメ、中でもコシヒカリは世界一美味いと言われている。では、実際に日本のコメが世界で何位なのかを知りたくなった。日本代表になっているコメがないので、自分が作ったコメを日本代表として、世界の国々を相手に戦おうと思った。さらに言えば――あくまで筆者の勝手な推測だが――彼は、コメ農家として、いやそれ以前に男性に本来備わった本能の部分で、自らの腕っ節の強さを確かめてみたくなったに違いない。

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