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“儲け”ではなく利益の出る経営を目指す
須藤は高校を卒業して1年間、東京の青果卸に勤めた。そこで学んだマーケットに選ばれる農業。そして、家に戻って最初にやったことは井戸を掘ることだった。子供時代は生活用水すら300mも下の井戸まで汲みに行くような暮らしだった。最初に掘った井戸は250万円の借金をして150m、50mmのパイプで汲み上げるものだった。生活用水と夏の畑に灌漑するために有り余る水を活かすために始めたミツバの水耕ハウス建設が現在の須藤の始まりだった。
須藤の水耕ミツバを始めようという提案に、以前からの負債も残っていたのに父は家や畑を全て担保に入れ、共に借金を頼んで回ってくれた。最初から500坪のガラスハウスである。1966年(昭和41年)に2450万円の借金だった。その後も、69年、72年、76年とほぼ3年おきに500坪ごとに借金でハウスを増設し、それが現在の1万7千坪にまでなったのである。まさに作る器にあわせて育ってきたのだ。
でも、闇雲に規模拡大を目指したわけではない。家族と数名のパートの時代でも苦労はなかったわけではないが、現在の規模は、水耕農場だけで7カ所、役職員17名、パート従業員も100名を超える。農家という“暮らし方”では潰れないが、“事業”としての農業を潰さずに続けるのは容易なことではない。
須藤は儲けるために高く売れるものを追いかけるのでも、ただ面積を増やせば稼げるなどと考えて来たわけでもない。公的融資制度や政策で守られれば誰にでもできるなどということはあり得ない。人はよく“儲かる農業”等と言うが、須藤は“儲け”を求めて農業経営をして来たわけではない。描いた夢を実現するために、必死になって利益の出る仕組みを考え続けてきたのだ。
少し気の効いた農家なら、出荷先を市場主体から外食や小売あるいは生協などとの契約取引主体に変えているケースが多い。須藤の場合は、現在でも外食や小売業などとの自家取引は100カ所を超えるが、売上の約9割は市場との取引である。自分を育ててくれた卸し会社や関係者に対する信義も大事にしている。同時に、夏場の高温時でも安定的な生産のできる水温管理装置に限らず、個々の人的能力だけに頼らぬ管理システムで年間を通して高品質で安定出荷ができる。その生産ロットの大きさを含めて高い評価が与えられている須藤は市場出荷が年間を通して確実に利益を出すために有効だったからだ。また、かつて関係者に「そこまでしなくても」と言われた設備投資がその評価を与えられる理由でもあったのだ。
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須藤久雄
千葉県君津市
1947年、千葉県君津市生まれ。君津農林高校を卒業後東京青果での研修の後に就農。1966年に500坪から始まった水耕栽培は、今年中には2万坪までに成長。観光農園事業も盛況で、野菜の加工事業も手がけようとしている。
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