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【新・農業経営者ルポ】
風土、文化 そこに生きる全ての人々を経営資源にする農村経営者
- 第105回 2013年03月15日
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補助金目的でない自発的な集落営農
信州の冬は長く、厳しい。二つのアルプスに挟まれた飯島町では、春の声を聞く頃になっても、田畑はまだ雪に覆われている。標高2000mを越える峻厳な山々に囲まれた谷地は、当分の間はひっそりと静まり返っているようだ。
それでもしばらくすれば、田を切るように走る川を伝って、雪解けの水が天竜川に勢いよく注ぎ込む。そして全国有数の日照量を誇る伊那谷は、生命を育む大地へと生まれ変わる。こうした地形を舞台に、田切農産はコメや麦、大豆、野菜、果樹などを90ha以上で生産している。住民263人を株主にして、2005年4月に設立した組織である。
集落営農と言ってしまえばそれまでだが、品目横断的経営安定対策の施行とともに、補助金目的でにわか仕込みにでき上がった組織とは性質がまったく異なる。むしろ同対策が始まる以前に、地域の要望から生まれた自発的な組織であることを強調したい。紫芝は「なんだか後から補助金が付いてきた。ラッキーだなと思いましたね」と笑う。
自発的に発足できたのはなぜだろうか。少し歴史をさかのぼる。
1986年。町では第二次構造改善事業がすべて終わり、1筆平均が25aの農地が出来上がった。このため、多くの農家は従来持っていた農機具では対応できなくなった。兼業農家が中心となり、農機の共同利用をする営農組合が続々と立ち上がる。
3年後の89年、それらを束ねるようにして農家や地主がすべて参加する格好で「地区営農組合」が誕生した。周辺では精密機械業やIT産業が盛ん。兼業農家は実に8割に及び、彼らの農作業を地区営農組合が請け負うようになった。
しかし、それから10年以上が経ち、営農組合員の平均年齢はいつしか60歳を超えるようになっていた。当時、こんなアンケートが取られた。「法人ができたら、農地をどうしますか」。この質問に「5年後までには預けたい」という回答は6割に達したのだ。紫芝は振り返る。
「多くの農家は営農組合があるから安泰だと思っていた。しかし、組織の役員というのは、村なので他薦の手挙げ方式じゃないですか。任期が2年、2期であっても4年。頼まれてやっているので、維持はあるけど発展がなかったんですね」
そんな時、個人で経営をしていた紫芝もある壁にぶつかっていた。それが地域で巻き起こった担い手法人の待望論と出会うことになる。その話の前に、彼の略歴に触れたい。
中山間地の壁の向こう側へ
紫芝は八ヶ岳にある県農業大学校を卒業後、米国はカリフォルニア州へ酪農と肥育の実習に出かける。1年半に及ぶ留学から帰国後、父親の畜産経営に参加。やがて肥育牛は100頭を超え、新たに水田農業も手がけるようになっていった。
3年近くが経った頃、「これだけの規模の経営体なら大人は2人も要らない」と考え始める。そこで25歳で独立。父親は畜産、自身は水田農業と経営を分離し、それぞれの道を歩みだした。
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