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新・農業経営者ルポ

風土、文化 そこに生きる全ての人々を経営資源にする農村経営者



 独立後、水田農業の規模拡大をさらに進める。しかし、15haまで広げたところで閉塞感を覚えるようになった。中山間地の壁だ。

 中央アルプスと南アルプスに挟まれ、平坦地は少ない。まったくの一人で15ha以上をこなすとなると、あぜ草刈りなどの管理がとても行き届かない。これ以上に事業を発展させるにはどうすればいいのか。

 経営者としてあくなき模索を繰り返しいていた最中、田切地区で担い手法人を作る計画が持ち上がっている話を耳にした。その代表を募集しているという。これに紫芝は応募する。中山間地における個人経営の限界を突破するためだ。

 公募にはほかに2人が集まった。その2人は役員経験のある定年退職者で65歳を過ぎた人たち。一方の紫芝は43歳。その若さに周囲から批判もあったというが、結局は代表を任せられることになった。ただ、株主たちに次の約束をしてもらった。

 「最低10年やらせてくれ。ただし10年後に代替わりする」

 当時の気持ちを振り返る。

 「2年や3年で社長や役員が変わっていくような経営体なら、経営責任は生まれないし、設計責任も生まれないし、ビジョンも描けない。どうしたって、うまくいきっこないんですね。10年やらせてもらう。その代わりに、もし負債が生まれたら、自分の田畑を売ってでも責任を取りますよ、と言いましたね」


地域の実働部隊として発足

 こうして田切農産が誕生した。それは、極めて自覚的な「農業経営者」が「農村経営者」に生まれ変わった瞬間でもあった。

 法人設立に当たって、先ほど述べた地区営農組合員には全戸に出資してもらった。うまくまとまった理由について、紫芝は「歴史的に共同作業に抵抗感がないところだから」と説明する。例えば、かつて伊那谷では養蚕が盛んだった。一時、飯島町には農家が出資して設立した製糸組合が10以上あった。最後まで残ったのが田切地区。古くから協同の精神が根強いのだ。

 また、個人ではなく法人を担い手にした理由については「最終的には個人の農家を担い手とすると、その人が終われば終わり。それを解消するには法人だったんだね」と語る。ここに田切農産の経営理念の一つ、「永続する農業」が現れている。ほかの二つは「環境にやさしい農業」と「創造する農業」である。

 地域において田切農産はいわば「実働部隊」。農業・農村の総合設計は、町役場やJAなどでつくる「営農センター」が担っている。ここで作られる構想を基に田切農産は、先ほど述べた地区営農組合(任意組合)から農作業を受託したり、農産加工品の販売をしたりしている。いわゆる「二階建て方式」だ。

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