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特集

売ることから発想するこれからの農業
作れるだけでは半人前!!

これまでの農業は、作ったものを持っていかれたり、持っていってもらったりする農業だった。それは“余計なこと”を考えないで済むラクな仕事であったかもしれない。しかし本当に面白い仕事とは、自分のしたことを喜んでくれる人の存在が実感できる仕事ではないだろうか。売れない辛さを経験し、売れたときの感動を知ってこそ人は経営者に向かって踏み出す。そのための農業を始めよう!
 現代は作る者の時代ではない。売る者の時代である。いや、より正確に言うなら、買う者の時代である。買う者とはつまり一般の生活者、食べ物で言えば最終的に口に入れる人、”お客”のことだ。 

「なに言ってるんだ。俺の作った野菜を俺のつけた値段で買って食わないヤツはバカだ!「俺は偉いんだゾ!」などと騒いでもだめである。きょうびそんな言葉を吐いているようでは誰も相手にはしてくれない。この強力にして抗し難い流れには、自動車も電器もアパレルも、そして食品も、いまやおよそすべての製造系の企業が「降参」しているのだ。

 およそ15年ほど前までは、確かに”世の中で一番偉いのはメーカー(作り手)だ”ということになっていた。と言うのも、過日モノの値段はほぼ一方的に彼らが決めていたのだ。まず”マーケティング”と称して「いつ、どういうものを、どういう卸値で流す。わが社が希望する小売価格は○○円である」ということを決め、それを流通業者に”営業情報”として流し、その方針に従わせていた。流通業者自身も、屈辱的ではあるが、「買わないヤツはバカだ」と信じていた。

 ところが、1982年頃から事情が少し変わってくる。小売店にモノが余り始めたのだ。誰も買わないというものが増えてきた。その時点で深く反省していればよかったのだが、バブルによる消費意欲再燃で売れないモノが見えなくなり、メーカーは安心してしまった。そこへ来てのわが国始まって以来の破壊的デフレ社会の到来である。売れないモノはどうしたって売れないという時代になった。もう誰もメーカーの言うこと、”営業情報”などには耳を傾けない。

 問題は、メーカーの提示する商品の内容と価格が、消費者の望むそれらと大きく乖離したものになってしまっていたということだ。メーカーの価格(希望小売価格)の決め方は、一般にコストを積み上げた総和からはじき出すというもの。したがって原価もかけ放題だ。となれば当然、「高く作って高く売れば利幅も大きい」式のマーケティングが存分に行なわれる。ところが買う者にしてみれば、“最高の品質”で“最高の価格”のものばかり売られたのではたまらない。

 さらに、そのコストとは製造原価だけではない。メーカー主導の時代、製造はあくまで”見込み生産”であった。すると当然、売れなくて発生する「見切りロス」と、売れるのに用意できなくて発生する「機会ロス」が生じる。そのロス分のコストも、当然末端の売価に乗せられることになる。かくして売価は上がり放題。売れる限りはそれも”正義”だったが、消費者がそれに「ノー」を示し始めたのが82年頃だったというわけだ。

 そこで逆ににわかに発言権を増しだのが、デパートなどを除く小売店、スーパーやバラエティストアなどの量販店チェーンである。合言葉は“マーチャンダイジング”(商品戦略)。いわく、 

「“マーケティング”とは売れないものをいかに売るかを考えること。これからは売れるものを開発して売れるべくして売る“マーチャンダイジング”の時代」

 いわば「売れないモノを作るヤツはバカだ」という時代である。買うのはお客なんだから、お客がはしがるものを作ろうという、ばかばかしいほど至極もっともな主張である。しかしなぜか長年それができなかった。もっともではあるが、難しかったからだ。

 たとえば、くだんの「見込み生産」をやめようとする。それには売れた分だけ製造し、店は在庫を持たないという方法をとる。そこで先進的な小売とメーカーは、前日の発注で「翌日配送」だとか、「1日3回配送」などという凄まじいことまでやり出す。「できません!」とメーカーが言えばクビ。小売はさらにメーカーに対して、使っている原料が高すぎるんじゃないか、人件費が膨らみ過ぎてるんじゃないかとどんどん立ち入ってくる。無茶と言えば無茶だが、それをする小売もメーカーも「お客様のためですから」と口を揃える。小売も好きで意地悪を言っているのではない。メーカーが必死で小売に付いていこうとしているのと同じく、小売は必死でお客に付いていこうとしているのだ。お客こそが一番“偉く”、そして恐ろしいものなのだ。

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