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特集

売ることから発想するこれからの農業
作れるだけでは半人前!!

そして彼ら”お客”は、その同じ容赦のない視線を農産物にも向けていることを覚えておこう。車や機械を作るメーカーはまだましと羨ましくもなるだろう。なにしろ農業はもともと、生き物と気象という無言の“偉い”ものを相手にしている。この上”お客”などというものの言うことまで聞いていたら何もできやしない! と悲鳴が上がるかもしれない。しかし、いくら生き物や気象と折り合いをつけていいものを作っても、売れなければそれはもはや”いいもの”ではない。見えない振りをしてもだめなのだ。

 脅かしから始まってしまったが、悲観には及ばない。ここに、そんな”お客” に正面から向かい、淡々と、あるいは壮絶に農産物売ることを続ける5組の方々に登場してもらった。彼らのこれまでの仕事の話は、きっと、モノを売ろうとする(農外を含めた)すべての人たちに大きな勇気を分けてくれるはずだ。そして。成功者たらんとするには、安きに流れてはだめだ、狭き門をくぐろう、ということを教えてくれるだろう。


「自分で作ったものを売る。いいものを作っていれば、お客さんがお客さんを呼ぶ」
新海さんの仕事に教わること

自分たちで作った作物を自分たちで東京のお客さんのところへ売りにいく行商(カツギ)を続けて50年。新海さん夫妻の仕事には、商売に必要な知識と理念がほとんどすべて詰まっているようにみえる


「終戦当時は、この辺から何人も行ってたね。ばあさん(とみさん)らは、地下足袋履いて1里先の駅まで歩いて行って、俺はバイクで駅まで荷を運ぶ。それを電車に背負い込んだ」

 当時の交通手段はもっぱら電車。JR成田線や常磐線の名物「行商列車」全盛期である。そして「成田線出荷組合」の鑑札を手にしたカツギの主役は女性たちだった。黒い風呂敷を担ぐ姿がガラスに似ていることから「首都圏の台所を担うガラス部隊」と呼ばれた。

 新海さんは、2・5haの水田でコシヒカリ、5aの畑で野菜を栽培している。毎年「おつきあい程度」に農協に米を出荷する以外、自分の所で穫れたものはすべて行商で売る。自分で作った作物を直接消費者へ届ける。そんな新海さんの姿勢は50年間一貫して変わらない。しかしカツギをやるすべての人がそうではなかった。やがてよリ高い売上げを狙って、週1~2回の行商を3~4回に増やす人たちも出てきた。もちろん生産は追いつかない。

「そういう人は市場で仕入れて売るだけ。だから評判が落ちてくる。やっぱり自分で作ったものを売りに行く人が強い。いいものを作っていればお客さんがお客さんを呼ぶ」

 かくしてカツギをする人の頭数は減っていく。静かではあるが厳しい淘汰もあったのだ。見切りをつける人たちは、続ける人たちに得意先を「頼む」と譲って去っていく。新海さんも、そうした客先を引き受けていき、それにつれて行商に歩く範囲も広がっていった。

 また一方、復興から高度成長期へと進むにつれ、上野、浅草界隈から郊外へ移り住むお客が増えていった。とはいえ、引っ越してしまえばそれで終わりではない。むしろお客が越した先でまたお客が増える。歩く範囲は広がる一方。ついに20年ほど前に電車をやめ、夫婦二人、車で直接都内へ赴くようになる。

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