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特集

売ることから発想するこれからの農業
作れるだけでは半人前!!

 地元の一生産者だった照沼家が流通業へと進出したのは、昭和30年代の初頭。

 それまで勝浩さんの祖父保夫さんは、葉タバコの栽培を手がけていた。ところがある年、収穫を目前にして霊が降り、タバコは全滅。それを目の当たりにした勝浩さんの父の勝一さんは「農家が安定した収入を得ていくためには作るだけはダメだ」と考え、手さぐりのうちに産地からサツマイモやスイカなどを買い付けて市場へ販売する産地卸を始めた。

 さらに、サツマイモの加工品で地元の特産品でもある干し芋に着目。当初は、生産者から買い付けたものを、そのまま問屋へ卸すだけだったが、昭和42年頃から「雪の華」のブランドで販売するようになった。

 また買い付けを続けるうち、市場でサツマイモが品薄になる3~4月にも、消費者の需要があることを知る。通年安定して供給できれば、生産者側の利幅も大きい。そこで、昭和40年頃、サツマイモのキュアリング技術が確立するやこれをいち早く導入。秋収穫したものを翌年の7月まで安定した状態で貯蔵できるようになった。年間を通じて商品を供給できる体制を整えたことは市場や流通業者からの信頼を得る結果となった。折しも当時は1950~1960年代の高度成長期。物があれば、望みどおりの値段で売れる時代だった。かくして急成長を遂げたのだった。昭和52年に法人化。(株)照沼商店を設立した。

 昭和37年生まれの勝浩さんは、県立東海高校卒業と同時に照沼商店の仕事に従事するようになる。勝一さんの「うちが一番厳しい。よそへ行くと堕落する」との方針から、進学や他の会社での修業も経験せず、家業一筋でやってきた。それだけに、作物=商品に対する姿勢には、父親譲りの厳しさがある。 

「人間よりイモが大事。イモが『寒い』と言えば、自分の布団をかけてやるような気持ちでやっています。収穫期は日が落ちて真っ暗になっても、ライトをつけてでも堀り続けます」

 収穫期、勝浩さん自身はもちろん従業員の残業は1ヶ月150~160時間に及ぶという。そして収穫が一段落すると、干し芋の買い付けに飛び回る。

 まだ駆け出しの頃、いい干し芋を作ると評判の農家の品をぜひとも買い付けようと、シーズン中1日も欠かさず通い詰めたが、門前ばらいの連続。それでも翌シーズンまで通ってやっと売ってもらったという経験もある。いいものを得るためなら労苦は惜しまない。

 23歳で結婚。27歳頃から本格的に経営を任されるようになったが、それと同時に、サツマイモをめぐる状況も次第に厳しくなってきた。

 たとえば、5~6年ほど前から生産農家でもキュアリング倉庫を持つ人が増え、品薄期の出荷が増えた。そして、それに追い打ちをかけるように、中国産をはじめとする格安の外国産サツマイモが市場に出回り、いよいよ国産の二級品の相場が崩れてきた。そこへきての景気の後退。小売店の価格競争に一層の拍車がかかった。 

「とくにここ2~3年、小売店の競争は熾烈です。そこに商品を納める、僕たち農家はたいへんなんです」

 と勝浩さんの表情は厳しい。 


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