ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

特集

売ることから発想するこれからの農業
作れるだけでは半人前!!

 そして問題は機械だけではない。既存農協の体質が、事態をさらに悪くしているのだと、宮田さんは指摘する。 

「国から補助をもらっているから、何億もの機械の導入に失敗しても黙っている。それでも、みんなが失敗していれば怖くない。補助金は、覚醒剤のように農家を毒する面を持っているんです」 


【売り手と買い手は対等 小売値の監視も必要】

 いまから25年前、宮田さんが共和町施設園芸共同組合を設立したときは、組合員はたった8名。資本金わずか25万円の旗揚げだった。 

「そもそもの始まりは”農協塾”だった」と宮田さんは回想する。本来農家の利益のために存在すべき農協が、まるで本末転倒になっている。これはおかしいと、22歳の宮田さんが農協の総会に乗り込んでは論争を起こしていた時期のことだ。 

「ハウスのトマトの組合からスタートしたんです。農協をよくするのが目的なんだから、(農協を排除するのではなく)俺たちの売上げは基本的に農協を通して手数料を収めるんだと言って」

 それから8年後の昭和56年、組合員の数が14人に増えた年のこと。組合は中古の選果機の購入に踏み切る。当時の値段で1000万円、中古品とは言え、茨城県で最初の導人例だったという。 

「これに失敗したら、うちは潰れると思った。栃木の氏家町に行って使い方を見学して、頭の中でも何度も試運転を重ねた。これなら大丈夫だと確信するまで。頭の中で機械の動きをシミュレーションする癖は、そのころからついた(笑)」

 昭和58年には中央選果場を現在の場所に建設。すでにキュウリやスイカなどの農家が加わり、組合員は35名に達していた。配送センターを併設した中央選果場は、これ以後、野菜の通年供給基地としての役割を果たすことになる。また、この少し前から、組合内部に設けた直販部で取り組んできた直売が、数字的に順調な伸びを示しだす。 

「農協を通すのとは別に、作物の半分程度は白分たちで売ろうと思って始めたんだが、最初は企業の昼休み時間に、メロンをかついで行ったり……売る苦労とは大変なものだと実感しました(笑)」

 この組合直販部から発展する形で、昭和60年には協和園芸開発㈱が発足した。直売を管理するための法人化に踏み切ったわけだが、その真意を理解してもらうのに、またひと苦労する。 

「仲間うちの運動の次元に留まっているなら、”参加者は平等”でいい。しかし農村で商行為を成立させるとなれば、予算をキチンと立てて、それを全うする生産・販売を行なわねばならない。組織の決断には全員が従うという、命令系統のピラミッド作りが必要なんです。農村特有の平等意識の中に、それを持ち込む。だから俺は、専務として絶対権限を持つかわりに、会社から給料はもらわないとか、ムチャなことをやったんですよ」

 卸しに取り組むに当たっては、宮田さんは一つのポリシーを掲げた。二流の品質になるまではやらない」と言うのだ。 

関連記事

powered by weblio