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同伴者たち

ひとつの商品を見直す運動がカゴメらしさを取り戻させた/カゴメ株式会社農業本部国内原料部長深谷潔氏

成長は企業の使命であるが、ただやみくもに大きくなればいいというわけではない。枝を繁らせる向きによっては、成長を支えてくれていたはずの顧客、支持者といった「土」を失ってしまうことにもなりかねない。カゴメはある大きな成長の節目に、そんな孤立した大木になりゆく自分たちの姿に気づき、いい知れぬ寂しさと危機感とを味わった。その苦境から彼らを救い出したのはほかならぬ農業者であり、農業者とともにあることを実感できたカゴメ自身であった。
成長は企業の使命であるが、ただやみくもに大きくなればいいというわけではない。枝を繁らせる向きによっては、成長を支えてくれていたはずの顧客、支持者といった「土」を失ってしまうことにもなりかねない。カゴメはある大きな成長の節目に、そんな孤立した大木になりゆく自分たちの姿に気づき、いい知れぬ寂しさと危機感とを味わった。その苦境から彼らを救い出したのはほかならぬ農業者であり、農業者とともにあることを実感できたカゴメ自身であった。

 昭和50年代半ば、カゴメは年商700億円の売上規模に達しました。ほとんどトマト製品一本の事業でそれが達成されたのです。そしてその時点で年商1000億円も射程内に入りました。その実現は、「総合食品メーカー」になるという、私たちの長年の夢でもありました。

 実際に年商1000億円達成を目標に据えた事業展開は、昭和58年から始まります。それにはトマト以外の農産物を扱う必要もありましたし、ジュース以外の各種清涼飲料水など、それまで手をつけていなかった分野の商品も含め、たくさんのラインアップを行なっていく必要もありました。結局そうした動きを5~6年の間続けましたが、その甲斐あって昭和63年、ついに年商1000億円を達成することができました。

 ところが、それと前後して”消費者ばなれ”という思わぬ事態が起こってきたのです。大きな売上げを上げられるようになった一方で、逆に消費者からの支持を失ってしまうことになってしまった。

 考えてみれば、多品目戦略を進める過程で、”カゴメらしくない”製品も出すことになっていたのでした。私たちはそのことでたいへん深く反省しました。そして、もう一度消費者から支持される会社になること、本当に提供すべきもの、カゴメらしさを訴えられる商品作りに努めることが、1000億円達成後の新しい仕事になったのです。

 私たちらしさとは、農業から出発し、農業から商品を発想するという姿勢です。私たちのめざすべき企業の姿として「農業食品メーカー」というビジョンを打ち出したのも、平成5年に農業本部という部署を設けたのも、そうした経緯からなのです。


農産物の価値を引き出す そのために加工品を作る


 カゴメの事業は、明治32年、創業者の蟹江一太郎が西洋野菜の栽培に着手したことに始まります。もともと蟹江は愛知県の農家でしたが、兵役から帰るおり、上官から「これからはけ加価値のとれる西洋野菜をやってみてはどうか」とアドバイスを受けたことがきっかけだったということです。トマトもこの年に最初の発芽を見ています。

 ハクサイやキャベツといった、いまでは普通に生産され流通している作物もそのように栽培と販売を始めました。そして早くも明治39年には、他の農家にも西洋野菜を作ってもらって「販売については責任を持つ」という、いまで言う契約栽培を、初めて行いました。

 しかしそんな中で、一つだけなかなか売れない作物がありました。トマトです。蟹江はこれにずいぶん頭を痛めたようですが、その後「アメリカではトマトの加工品が売られているよ」という話を聞き、明治36年からトマトソース(現在のピューレー)の生産に着手しました。さらにトマトケチャペフは明治41年から、トマトジュースは昭和10年から加工を始め、そして大正から昭和にかけての食の洋風化にともなって、それらのトマト製品が売れるようになり、安定してトマトを生産し続けることができたのです。

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