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人生・農業リセット再出発

水戸黄門の諸国漫遊記

「この印篭が目に入らんか、天下の副将軍なるぞ!」 この名ゼリフで、悪代官を「ハハッ~~!!」と言わせて平服させる葵の紋の水戸黄門。紀州・尾張・水戸の徳川御三家、その常陸の国・水戸の二代藩主である徳川光圀公は家康の孫に当たる。その黄門さま直筆!?の掛け軸が売りに出されているということがいろいろ調べてみるきっかけになった。

おなじみの助さんは彰考館の史官である佐々宗淳介三郎のことであり、格さんは家臣の渥美格之進である。テレビの好々爺のように剣術の腕っ節のほどは分からないが、各地を歩いて記録を残した点ではかなり有能な人物だったようだ。だが、私が何を調べても、主従3人が日本全国を漫遊したという史実や証拠はどこにも残っていない。それどころか、領国以外では水戸と江戸を往復するのみで、日光東照宮への参詣と鎌倉に一度旅行した事実が明らかになっただけだった。
光圀公は少年のころ、奔放な生活を送り、江戸の町を遊び回って「言語道断のかぶき者」と評されている。傾奇者(歌舞伎者・かぶきもの)とは、室町、江戸時代初期にかけて江戸や京都などの都市部で流行したもので、男伊達を競い、派手な身なりや異風を好み、常識を逸脱した行動に走る者たちのことを指す。今でいうヤンキーだ。茶道や和歌などを好む者を数寄者と呼ぶが、数寄者よりさらに数寄に傾いた者という意味だろう。1657年、光圀30歳のとき、国史の編集を始め、間もなく水戸藩の殿様となって殖産産業を図る一方、江戸小石川藩邸内に史局を設けて彰考館と名付けた。『春秋左氏伝』の杜預序の語、「彰往考来(往事を彰らかにし、来時を考察する)」に由来する。幕府の『本朝通鑑』の向こうを張ってより本格的な歴史書を作り、藩士らに道徳の基準を示そうとした。1690年に隠居した後は、水戸郊外の西山に住み、文筆に専念したとある。全国行脚で一斉を風靡した世直しの水戸黄門さまの実態は……残念ながら、本来はこのお堅い話が事実であった。黄門とは中国の宮殿の門のこと。秦や漢で宮殿の門が黄色に塗られていたことに由来し、中国皇帝の勅命を伝える職務だった黄門侍郎の正式通用門であり、日本の中納言を黄門というようになったとある。

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