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特集

農業、いまどきの女たちが考えること

農業というと男性の職業というイメージが強いせいか、その世界に入ったというだけで女性たちは世間から注目されてしまいがちだ。でも、それを自分の仕事とし、経営を築き上るということにおいて性別は関係ない。確かに出産や育児というハンディはあるが、逆に男性にはない才能も備えている。こうした点について、彼女たちはどう考えているのか。そもそもどうして農業の道を選ぶのか。いまどきの女たちの実像を追った。 (編集部)
いまどきの女たちはどんな思いで農業を選び、
普段の仕事をこなしているのか。3つの事例を紹介する。

【ケース1 即断即決、頼りになる母】

今までのやり方でおかしなことがあったら変える。農家の嫁の慣習にこだわることなく、常に新しいアイディアを巡らせて、苦難を乗り越え、ニンジン専業に戻った。苦労を共に子供たちが帰ってきたから成り立つ経営では、ニンジンの選果、パッキング作業が利益率を上げる鍵を握っている。そこに女性たちが活躍する場がある。

「魅力的な職場は自分たちの工夫次第でどうにでも変えられる」
熊本県菊陽町の(有)大自然ファームの代表を務める本田留美子(59)と夫の和寛(63)はこう話す。夫婦二人三脚で広げてきた家族経営のニンジン栽培は、秋冬ニンジンと春ニンジンで28ha、出荷量にして約1400tになる。現在は、高い利益率を目指すミッションを受け継いだ長男夫婦と長女夫婦、次女、姪ら、次の世代が現場で奮闘している。

農家の嫁の常識にとらわれず逆境を自由な発想で乗り切る

留美子は同じ町内のニンジン農家の生まれだが、農家に嫁ぐ気はなく、学校を卒業後は役場に勤めていた。暑い日も寒い日も朝から晩まで畑に出ている両親らの姿を見て、正直なところ、農業は大嫌いでやりたくなかったという。ところが、たまたま熱烈なアプローチをした男性が酪農をやっていたため、1976年の結婚を機に仕方なく農業に就くことになった。
夫は自らの就農と同時に実家の農業を畑作から酪農に転向するほどに、農業経営については常に時代の先を読むタイプだった。考え方は先進的で、嫁入り当初から毎月払いの給料をくれた。留美子も新しい考え方の持ち主で、酪農の仕事は牛の匂いが身体に染み付くと分かると、牛小屋の横に自分専用の風呂をつくったりもした。慣習に基づく義父母の仕事のやり方にはしばしば疑問を感じて、無駄だと思う作業を見つけると意見した。頑固だがおとなしい義父としばしば衝突していた当時を振り返って「とんでもない嫁だった」と笑う。
結婚生活は順調で3人の子宝に恵まれたが、突然、危機が訪れる。85年に親戚の保証人になっていた義父が保証倒れに遭い、一家は約4億円の負債を背負うことになったのだ。この逆境においても、留美子の発想は自由だった。酪農家の朝晩は忙しいという常識を破り、夜中2時半に起きて乳搾りの前に牛乳配達を始めたのだ。朝がダメなら早朝の時間を有効に使えばいいというわけである。
また、和寛がアキレス腱を切って2カ月の入院を強いられた際にも、「できない」という言葉を口にする余裕はなかった。その間を子供たちと協力してどうにか乗り切るためにアイディアをひねり出した。まず、牛の頭数分のバケツを用意して、昼間に異なる配合の餌を牛ごとに準備しておく。学校から帰ってきた子供たちはそれぞれのバケツを運んで給餌する。子供たちができるように仕事のやり方を変えたのだ。最初はバケツを引きずるように運んでいた子供たちは、次第に最大4個のバケツを一度に運べるまでに成長する。兄妹は競うように働いた。
子育てにも工夫は尽きない。和寛は家族に高いレベルの仕事を求めたが、留美子も3人の子供たちもそれに応えるのが本田家では当たり前だった。小学生の頃から子供たちには手伝い以上の一人前の仕事をさせた。働いた分は、作業内容によって決められた時給分のお小遣いを子供たちに与えた。
「お金は使うときが楽しみでしょ。子供はお金の価値が分からないから、その楽しみも教えないとね」
留美子は菓子を量販店で仕入れて、家の中に「菓子店」をつくり並べた。子供たちは自らが働いて稼いだお金を払って菓子を買う。お金を稼ぐことと同時に金を使う楽しみも教えるためのアイディアだ。子供たちからも好評だったという。
彼女のモットーは「こぎゃんことしちゃおられん」という熊本弁のとおり、自分でやってみて即決即断すること。「こうしたらいいのに」「ああしたらいいのに」と新しいアイディアを思い立ったら、すぐに行動に移す。そのために夫婦は毎晩、風呂場で議論を重ねた。家族や周囲からは時には喧嘩のようにも聞こえるほどだったというが、お互いの本音を語り合う貴重な時間だった。おかげで日々の作業はスムーズに進んだ。
留美子が嫁いで17年後の94年、一家は酪農からニンジン作に転向した。牛全頭を売り払ったお金で借金を完済し、留美子は日々の牛の世話から解放された。苦労を共にして、小さい頃から一緒に働いてきた子供たちは両親の夢を一緒に見ながら育ったと言っても過言ではない。ニンジン作の規模拡大の流れに沿うように、それぞれが進学・就職を経て、実家に戻ってきた。

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