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農業経営者ルポ

描いた夢、作る器にあわせて人は育つ

水の無い傾斜畑が水耕温室へ


 須藤さんは、高校(君津農林高校)を卒業してから1年間だけ東京に出て東一 (東京青果)に勤めた。あとで考えれば、それが後の仕事の方向を定めたといってもよかった。

 東京から帰って最初にやったのは井戸を掘ることだった。子供時代には生活用水すら300mも下の井戸に汲みに行ってたほど、水には苦労していたからだ。

 約30年前のお金で250万円を借りて掘った深さ150m、50mのパイプを付けた大きな井戸だった。個人で畑潅施設を入れたのだ。いくら汲んでも止らず、使い切れないはどの水は夢のようだった。父も喜んだ。畑の生産は飛躍的に上がった。根菜類、葉菜類、果菜類、トンネルやパイプハウスも含めてありとあらゆることをやった。

 しかし、夏に使う畑潅だけでは水がありあまっていた。文字通り水で苦労をしきた須藤さんには、ありあまる水を放っておくのはいかにももったいないと思えた。大きな措金をしてまで得た「水」という財産を何かに振り向けたいと考えた。新たな借金をすることを思い悩むより、そこにある可能性を見過ごすことの方が惜しかった。そこで考えたのがミツバ水耕栽培たった。ふんだんに使える水を利用した水耕なら夏冬関係なく収入を得ることができる。

 プロであるかぎり、自分や身内のひいき目ではなぐ他人の目、厳しい一流の市場の中でこそ評価を受ける生産者になりたいと思っていた。東京の市場で働いていたので、東京市場という厳しい競争の中にある優れたものと自分の作物の違いが分る。そのくやしさが意欲や夢を後押しするバネでもあった。地場の市場ではなく一流の物が集まる東京市場に出荷でき、そこで評価を受けるようになる夢。それを叶える水耕ミツバでもあったのだ。

 夢と意欲と水だけはありあまるほどにあった。しかし借金は有ってもお金が無かった。

 実は幽成の年に、高校時代の仲間5人でシメジの施設栽培を始めていた。時代のタイミングもよく儲かりもしたが、皆でやる仲良し仕事であったために、結局は借金を残したまま解散することになった。5年間やったシメジから撤退しての水耕の始まりだったのだ。昭和41年、須藤さんが31歳の時だった。


黙って一緒に頭を下げてくれた父


 「親父とは死ぬまで喧嘩してばかりしていました」という須藤さんであるが、見たこともない水耕ミツバを始めようという提案に、また前の仕事の負債もあったのに、父は何もいわず家や畑など財産のすべてを担保に入れ、息子と2人で借金のために頭を下げて回ってくれた。そして2450万円の借金、500坪のガラス温室が建った。もう退路は無かった。

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