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人生・農業リセット再出発

真説『松尾芭蕉・裏の顔』

“旅に病んで夢は枯野をかけ廻る”を病床で推敲しながら50年の生涯を終えた芭蕉。奥の細道――月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり……は旅に生きた好き放題人生の達人ともいえよう。
彼が高めた俳諧は、日本文化の侘び寂びの極致として海外でも知られ、ウクライナの中学生教科書でも紹介されている。欧米文化は足し算の装飾、日本は引き算と削ぎ落としの美である。
時代は1680年江戸初期の元禄。今でも芸術家が豊かに生きていくのは難しいが、当時いくら風流とはいえ、数カ月も旅をしながら俳句だけで食べていけたのか?
関ヶ原後、まだ天下泰平ではない時節に「奥の細道」で回ったのは5カ月で2,400kmの長距離旅行。徳川とて油断できない外様大名である大藩の伊達、米沢藩、加賀百万石……を訪問している。同伴した河合曽良の日記に、その藩近辺ではかなりの長期滞在で何か綿密な調査をしたと記録がある。
松尾芭蕉は伊賀上野の出身、忍者の服部一族である。家康は服部半蔵、柳生家忍者を江戸城270年の警護にした。駐屯場所は今の警視庁、その地下鉄が“半蔵”門線である。伊賀上野の藤堂家の若殿を英才教育するにあたって芭蕉少年も傍で学友にさせられて一緒に俳句を手習いするが、若殿が早世して失業し、江戸に出る。かくして後に奥州へ覆面調査が始まった……とすれば、派遣主は言わずと知れた、江戸城本丸のボスからだったと解釈できる。外様の加賀百万石では前田の殿様に歓待され、長期滞在で茶室まであつらえてもらっている。

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