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【耕すということ】
耕すことの本質
- 農学博士 村井信仁
- 第16回 1996年04月01日
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どうもいまの日本にはわからないことが多い。たとえば、「不耕起栽培」といっているが、本当に“不耕起”なのであろうか。考えるに、種子を播くことに不耕起などあり得ないであろう。ウェーブコールタを使うなり、幅の狭いロータリを使うなり、なんらかの耕起を行なっているではないか。
とすると、不耕起とはボトムプラウによる反転すき込み耕、ロータリティラによる撹土耕などの全面耕に対する反語であろう。しかし、その意味は理解するとしても、「不耕起栽培」と表現するのは納得できない。「簡易耕」とか、「部分耕栽培」とかと表現すべきであり、その方が正しく内容を伝えていることになる。
なぜその表現に拘泥するのかといえば、「不耕起栽培」と表現することによって耕すことを手抜きしてしまうから、今日の”不耕起栽培”は研究の段階を越えることができず、現場に普及するに至っていないと考えられるからである。
つまり、種子を播くというからには、播種床を造成しなければならないのである。それは「耕し」であり、方法・手段に違いはあっても、この工程を省くことことの専門家はなぜか保守的で、あまり斬新的な技術に取り組まない傾向がある。困ったものである。
とすると、不耕起とはボトムプラウによる反転すき込み耕、ロータリティラによる撹土耕などの全面耕に対する反語であろう。しかし、その意味は理解するとしても、「不耕起栽培」と表現するのは納得できない。「簡易耕」とか、「部分耕栽培」とかと表現すべきであり、その方が正しく内容を伝えていることになる。
なぜその表現に拘泥するのかといえば、「不耕起栽培」と表現することによって耕すことを手抜きしてしまうから、今日の”不耕起栽培”は研究の段階を越えることができず、現場に普及するに至っていないと考えられるからである。
つまり、種子を播くというからには、播種床を造成しなければならないのである。それは「耕し」であり、方法・手段に違いはあっても、この工程を省くことことの専門家はなぜか保守的で、あまり斬新的な技術に取り組まない傾向がある。困ったものである。
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村井信仁
農学博士
1932年福島県生まれ。55年帯広畜産大学卒。山田トンボ農機(株)、北農機(株)を経て、67年道立中央農業試験場農業機械科長、71年道立十勝農業試験場農業機械科長、85年道立中央農業試験場農業機械部長。89年(社)北海道農業機械工業会専務理事、2000年退任。現在、村井農場経営。著書に『耕うん機械と土作りの科学』など。
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