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耕すということ

耕すことの本質

どうもいまの日本にはわからないことが多い。たとえば、「不耕起栽培」といっているが、本当に“不耕起”なのであろうか。考えるに、種子を播くことに不耕起などあり得ないであろう。ウェーブコールタを使うなり、幅の狭いロータリを使うなり、なんらかの耕起を行なっているではないか。とすると、不耕起とはボトムプラウによる反転すき込み耕、ロータリティラによる撹土耕などの全面耕に対する反語であろう。
 どうもいまの日本にはわからないことが多い。たとえば、「不耕起栽培」といっているが、本当に“不耕起”なのであろうか。考えるに、種子を播くことに不耕起などあり得ないであろう。ウェーブコールタを使うなり、幅の狭いロータリを使うなり、なんらかの耕起を行なっているではないか。

 とすると、不耕起とはボトムプラウによる反転すき込み耕、ロータリティラによる撹土耕などの全面耕に対する反語であろう。しかし、その意味は理解するとしても、「不耕起栽培」と表現するのは納得できない。「簡易耕」とか、「部分耕栽培」とかと表現すべきであり、その方が正しく内容を伝えていることになる。

 なぜその表現に拘泥するのかといえば、「不耕起栽培」と表現することによって耕すことを手抜きしてしまうから、今日の”不耕起栽培”は研究の段階を越えることができず、現場に普及するに至っていないと考えられるからである。

 つまり、種子を播くというからには、播種床を造成しなければならないのである。それは「耕し」であり、方法・手段に違いはあっても、この工程を省くことことの専門家はなぜか保守的で、あまり斬新的な技術に取り組まない傾向がある。困ったものである。

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