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ともかくもそれで、画数の多い「糞」の字を一回で覚えてしまい、なぜか自分の頭がよくなったような気がしていた。それはまた、「学ぶ」ことを実感した初めての体験であったような気もする。
大げさにいえば、この「糞」の字で文字というものに意味があることを知り、「コメダドモクソ」が何事かを「考える」という初めての体験だったのかもしれない。いま考えてみると、農業から学んできた「循環の論理」に僕がこだわるのも、三つ子の魂というやつかもしれない。しかし、以来「コメダドモクソ、コメダドモクソ、コメダドモクソ……」と呪文のように呟く癖が付き親によく叱られた。
ところで、いまになってオジサンのことを思い出しだのは、あの時オジサンが教えてくれた「米は食べるだけで糞になるが、糞を米にするには手間がかかる」というのが、現代の日本や日本人の姿そのものを言い表しているようにも思えるからだ。わが国はすでに喉元まで廃棄物 (糞)の山に埋もれてしまっている。しかし、われわれはそれをまだ十分に自覚できていない。これまで食糧やさまざまな工業原料そしてエネルギーについては、その調達コストが安くなることを優先にして考えてきたが、その廃棄物処理をどうするかのほうがこれからは問題にならざるを得ないのだ。
「なければ何でも輸入すればよい」あるいは「農業はなくとも輸入すれば何とかなる」といった考え方は、「われわれは食べればうんこをする存在であり、その始末をしない限りいつか糞詰りになる」ということを無視しているだけ。
かつて、少なくともほとんどの有機物については、農業が生産に結びつく形で最終処理を行なってきた。ところがいまや比較的処理が容易な食品産業等の残漬にしても、廃棄物の量とその処理コストはますます増大し、最終処分場を探すのに困る事態になり始めている。核廃棄物をはじめとする幾つかの危険物はその最終処理方法が見出せないでいるほどだ。
この後、日本は食糧や原料やエネルギーを海外に依存するだけでなく、日本人の生活や生産にともなう廃棄物、それも食品加工残湾のようなものまでの処理すら海外に依存するといった状況に陥ろうとしているのである。もしもそれが技術的に、また「輸出商品」となり得たとしても、やがて、世界の批判を受けることにもなるであろう。
かつて都市から出るし尿や食品加工業などの廃棄物は、農業生産を高める有効な肥料源であった。農家であれば、自家のし尿ばかりでなく非農家のし尿を生産物と交換してでも集めた時代があった。ところが現在では農業の内部ですら、一方ではそれを必要としながら、他方で家畜霊尿があふれ畜産公害などといわれている。もっといえば、食品加工業から排出される廃棄物を、高い加工・流通コストをかけて袋詰めされた堆肥として農家が買う時代になっている。これは、考えようによっては、農家がぺットフードで豚を飼っているということなのではないだろうか。農業がそんなお金をかけて成り立つものだろうか。
こういうと「それではお前が堆肥作りをしてみろ」、「都市の不始末をまたしても農業に押しつける」と読者に怒られそうだ。さらに、堆肥やし尿が使われなくなったのはその処理の手間やコストが引合わないからだともいわれそうだ。
その通りである。別に「日本の廃棄物処理問題解決のために農業よ奮起せよ!」とか「農業なら堆肥を使え」とか号令をかけるつもりはない。
そうではなく、農業の「作物生産」という側面ばかりに目を取られずに、有機物を無理のない形で自然界に還元していく「物質循環」という、「農業」のもう一つの側面がもつ可能性についてもっと考えてもよいのではないかということだ。むしろ「物質循環業」としての農業の側面が、新しい「ビジネス」のテーマとして検討できる時代がいよいよ始まろうとしているのではないか。
大げさにいえば、この「糞」の字で文字というものに意味があることを知り、「コメダドモクソ」が何事かを「考える」という初めての体験だったのかもしれない。いま考えてみると、農業から学んできた「循環の論理」に僕がこだわるのも、三つ子の魂というやつかもしれない。しかし、以来「コメダドモクソ、コメダドモクソ、コメダドモクソ……」と呪文のように呟く癖が付き親によく叱られた。
ところで、いまになってオジサンのことを思い出しだのは、あの時オジサンが教えてくれた「米は食べるだけで糞になるが、糞を米にするには手間がかかる」というのが、現代の日本や日本人の姿そのものを言い表しているようにも思えるからだ。わが国はすでに喉元まで廃棄物 (糞)の山に埋もれてしまっている。しかし、われわれはそれをまだ十分に自覚できていない。これまで食糧やさまざまな工業原料そしてエネルギーについては、その調達コストが安くなることを優先にして考えてきたが、その廃棄物処理をどうするかのほうがこれからは問題にならざるを得ないのだ。
「なければ何でも輸入すればよい」あるいは「農業はなくとも輸入すれば何とかなる」といった考え方は、「われわれは食べればうんこをする存在であり、その始末をしない限りいつか糞詰りになる」ということを無視しているだけ。
かつて、少なくともほとんどの有機物については、農業が生産に結びつく形で最終処理を行なってきた。ところがいまや比較的処理が容易な食品産業等の残漬にしても、廃棄物の量とその処理コストはますます増大し、最終処分場を探すのに困る事態になり始めている。核廃棄物をはじめとする幾つかの危険物はその最終処理方法が見出せないでいるほどだ。
この後、日本は食糧や原料やエネルギーを海外に依存するだけでなく、日本人の生活や生産にともなう廃棄物、それも食品加工残湾のようなものまでの処理すら海外に依存するといった状況に陥ろうとしているのである。もしもそれが技術的に、また「輸出商品」となり得たとしても、やがて、世界の批判を受けることにもなるであろう。
かつて都市から出るし尿や食品加工業などの廃棄物は、農業生産を高める有効な肥料源であった。農家であれば、自家のし尿ばかりでなく非農家のし尿を生産物と交換してでも集めた時代があった。ところが現在では農業の内部ですら、一方ではそれを必要としながら、他方で家畜霊尿があふれ畜産公害などといわれている。もっといえば、食品加工業から排出される廃棄物を、高い加工・流通コストをかけて袋詰めされた堆肥として農家が買う時代になっている。これは、考えようによっては、農家がぺットフードで豚を飼っているということなのではないだろうか。農業がそんなお金をかけて成り立つものだろうか。
こういうと「それではお前が堆肥作りをしてみろ」、「都市の不始末をまたしても農業に押しつける」と読者に怒られそうだ。さらに、堆肥やし尿が使われなくなったのはその処理の手間やコストが引合わないからだともいわれそうだ。
その通りである。別に「日本の廃棄物処理問題解決のために農業よ奮起せよ!」とか「農業なら堆肥を使え」とか号令をかけるつもりはない。
そうではなく、農業の「作物生産」という側面ばかりに目を取られずに、有機物を無理のない形で自然界に還元していく「物質循環」という、「農業」のもう一つの側面がもつ可能性についてもっと考えてもよいのではないかということだ。むしろ「物質循環業」としての農業の側面が、新しい「ビジネス」のテーマとして検討できる時代がいよいよ始まろうとしているのではないか。
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昆吉則 コンキチノリ
『農業経営者』編集長
農業技術通信社 代表取締役社長
1949年神奈川県生まれ。1984年農業全般をテーマとする編集プロダクション「農業技術通信社」を創業。1993年『農業経営者』創刊。「農業は食べる人のためにある」という理念のもと、農産物のエンドユーザー=消費者のためになる農業技術・商品・経営の情報を発信している。2006年より内閣府規制改革会議農業専門委員。
江刺の稲
「江刺の稲」とは、用排水路に手刺しされ、そのまま育った稲。全く管理されていないこの稲が、手をかけて育てた畦の内側の稲より立派な成長を見せている。「江刺の稲」の存在は、我々に何を教えるのか。土と自然の不思議から農業と経営の可能性を考えたい。
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