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新・農業経営者ルポ

有機農業の推進を目指す農業経営者と全国からそこに集う人々


マルタの販売ルートを利用する人たちは北海道から沖縄まで散らばっている。その名簿には複数のJAの生産部会も名を連ねている。3億円以上の団体は11を数え、その中にはJAの部会が3つある。一般的な農協が属地的な性格を持つのに対し、マルタは属人的な組織。思いを同じにする人たちで成り立っている。志郎はどうしてこれを組織したのか。それに触れるには、父・源志のことから始めなければならない。

田浦に訪れた甘夏バブル

40年前、マルタは現在の地名でいえば熊本県南西部に位置する芦北町田浦で生まれた。ここは全国のカンキツ産地の中でも、とりわけ山がちな土地である。志郎の車で巡ってみると、とても立っていられないような傾斜地にまで甘夏が植えてあるから驚いてしまう。かつてこんな場所にまで人々をツルハシとスコップでもって開墾させた熱源は、1949年に志郎の父・たちが導入した甘夏ミカンである。
当時、この中山間地の暮らしはとにかく貧しかった。専業農家であっても経営面積は20a。次男・三男は年期奉公に、残った家族も農閑期には出稼ぎをして家に仕送りしていた。戦後シベリアから復員した源志は貧しい集落を眺め、この地の暮らしを豊かにしたい気持ちを募らせていった。そんな中、目を付けたのが甘夏だった。前後の経緯は長くなるので省くが、熊本県が温州ミカンの産地化に乗り出していた最中、源志は私財を投じて甘夏の普及に取りかかり、田浦を日本一の甘夏産地に変えていく。
そのころに田浦が変貌していく様子について、ほとりは今年の2月から3月にかけて40回にわたって『熊本日日新聞』に連載した「仕事場はミカン山」でこう書いている。
「小学校6年の時、担任の先生が隣の男子生徒に『甘夏ミカンがようやくなるようになったから、お父さんが高校に行かせてくれるかもしれない。投げやりにならず、しっかり勉強しておきなさい』と言われるのを聞いて、私は初めて甘夏ミカンの力を感じたのでした」
この言葉どおり、60年代に入ると甘夏バブルが訪れる。全国で温州ミカン全盛の時代、それとは一味違う甘夏には新奇性があるうえ、中晩柑類の代表だった夏ミカンよりも酸が少なくて甘味が強いことが人気を呼んだ。当時の農家の暮らしぶりについて志郎は振り返る。
「とにかく潤った。甘夏の樹1本で1万円を売り上げていましたから。甘夏バブルが始まって10年間ぐらいの間は市町村別の農業所得ランキングでトップ10に顔を出すほどでした」

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