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新・農業経営者ルポ

有機農業の推進を目指す農業経営者と全国からそこに集う人々


そうした血を志郎も引いているのだろう。彼も父とともに有機農業の研究に取りかかる。妻のほとりにはこう諭した。
「学校も社会も教えてくれない。それを気づいた者がやらなければいけない」
当時は化学農薬と化学肥料を多投する時代。それに甘夏は放っておいても金が成る樹だった。それなのに世間の常識に異議を唱える二人を、家計を支える妻は反対するのでなく、素直に受け入れた。
有機農業の仲間づくりにあたっては細心の注意を払った。田浦で誘ったのは親類だけ。他には声をかけなかった。混乱して迷惑をかけたくなかったからだ。75年、(株)マルタ有機農業生産組合を設立。組合長には志郎が就いた。他団体の役員だった源志も2年後にそこを辞して合流する。
会社として一定の販売実績をつくる必要から、志郎は農家への支払い単価で手数料を削り、競合する農協や他の出荷組合よりも高くした。ただ、市場への卸値よりも農家に支払っている代金のほうが高くなることはたびたびあった。その分だけ赤字が膨らんだ。
「創業して3年目から5年目くらいまではいつ倒産してもおかしくない状況でしたね。田浦にあるうちの園地を抵当に入れて、銀行からは金を借りられるだけ借りていました。それでも運転資金が窮屈になって、生産者からもいろいろと助けてもらいましたよ」
栽培についても惨憺たる結果が続いた。品質、収量ともに以前の栽培法より落ち込んだ。そのうちに枯れる樹も出てきた。村八分のような疎外感を味わうこともあった。加えてマルタを創業してから、志郎は家族と会えない時間が増えていく。勉強会の開催や販路の拡大で出張が続くようになったからだ。76年には東京に販売事務所を開設し、だんだんと生活の拠点を熊本から1000キロ以上離れた大都市に移す。精神的にも肉体的にも辛い状況にあった志郎の支えとなったのは、揺るぎない使命感、それから子どもたちの手紙である。既述した新聞の連載で、ほとりはそのころの様子を次のように書いている。
「数年前東京の長男宅から引き揚げてくる時、夫は大事そうに色あせたはがきの束を抱えてきました。よく見ると単身生活の父親に3人の子どもたちが毎晩交替で書いた便りの束でした。忘れかけていた『お父さん、お疲れさん。お父さんのアパートの隣の柿の木だけで田舎を思い出しませんか。ちゃんと朝は決まったご飯を食べていますか。たまにははがき下さいよ』」
帰郷すれば、志郎には鶴田有機農園での仕事が待っていた。たまに家族がそろっても農作業に追われる中で、団らんの時間として思い浮かんだのはミカン山でのキャンプ。園地にテントを張り、春には整枝・剪定、秋には収穫の合間を縫っては、竹を伐って手製の竿を作っては近くの海で釣りをしたりして、夜はテントで寝泊まりして数日を楽しんだ。

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