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北海道長沼発ヒール・ミヤイの憎まれ口通信

蟹工船はどこの話だっけ?

1979年の夏にサザン・カリフォルニアにいた。何をそこで得たのかは今でも疑問だが、日本農政を信じ、自分の進むべき将来は揺れる青春の真っただ中であっても、羅針盤が示すかのように立ち位置と大まかな進路を与えてくれた。
LAでは21歳の若造が経験することすべてが喜びであったが、同じくらいの悩みがあり、解決できること、できないことのカオス状態で、その青春真っ盛りで知り合った、ある日系2世に言われた「安く使える日本人はいくらでもいる」という言葉は今でも忘れることはできない。
現代の若者群像と違い、1ドル360円時代の若者の米国志向や憧れはすごく、当時の入国ビザの期限である180日を超えて不法滞在者になる若者を多く目にした。
渡航自由化が始まった64年からその不法労働者となっていった日本人に、ガーデナー(庭師)の仕事が手っ取り早く働ける場所なのは、今のアミーゴ達の環境と同じである。もちろん違法なので同胞からイミグレ(出入国管理)にチクられて留置所送り、強制送還になるのは覚悟しなければならない。そこをわかっていて日本人を低賃金で使うガーデナーには日系2世が多くいて、同類相憐れむべき純正日本人をいまだ2等国民程度に扱う姿に納得がいかなかった。

野菜農家研修の
実態は謎だらけ

以前のコラムでなぜ日本の派遣組織は「米国農業研修を積極的に行なわないのか」と疑問に感じた読者もいただろう。これから登場するのは、父の急逝により跡継ぎだが、実質、新規参入した地元・長沼の若者がアメリカで経験した実話である。
26歳の光さんは地元の農業者で町議を務めるS氏の勧めもあり、S氏がかつて経験したカリフォルニアでの野菜農家研修へ参加を決めた。日本青年海外派遣センターという派遣組織から58万円の費用請求があったが、ありがたいことに長沼町役場から10万円、JAながぬまから15万円の助成をいただいた。だが、内訳にある滞在費用28万円の行方がことの始まりだった。
光さんは昨年12月11日に成田からサンフランシスコに向けて飛び立った。派遣組織から、ESTA(※1)では就労できないので観光に来たとイミグレに答えるように指示され、空港ではあの国府田農場の提唱で生まれたIFAAというNPO団体のノセタニ氏が出迎えてくれた。バスをLA経由で9時間乗り継ぎ、農場近くの町まで別途、自腹で向かった。
62歳のホスト・ファミリー日系2世のトム・Chinoさん(※2)は、24haの農地で50種類近くの野菜を栽培している。

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