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新・農業経営者ルポ

地域と歩む企業養豚の経営者


八ヶ岳での研修後、国際農友会の推薦で当初の願いどおり渡米が叶った。もちろん、養豚場で研修するためである。向かった先は中西部の養豚場。そこでもう一つ、さらに人生を決定づける事態が起こる。会社を興して米国養豚を研修中だった曽我の屋養豚(現・フリーデン)の初代社長が来場したのだ。大谷は社長になぜアメリカにいるのか事情を話したところ、「俺のところに来い、好きなように開拓させてやる」と誘われた。
1年後、帰国した大谷はフリーデンの社員になっていた。まずは神奈川県清川村で1年半ぐらい養豚の繁殖に従事。その後、同じ志を持って入社した同世代の2人とともに群馬県は赤城山に向かった。
フリーデンの本社にある航空写真を見ると、その養豚場は山の頂上にある。辺りを山林に囲まれ、人家からは遠く離れた場所にあるようだ。この56haという広大な場所で、大谷は同僚2人とともにブルドーザーで山林に道を切り開いていった。2年近く、来る日も来る日もそれを続けた。堪えたのは赤城おろしの風。冬期に北から吹きつける「上州空っ風」は八ヶ岳の真冬を乗り越えた大谷にとっても厳しいものだった。
「赤城の女の子はほっぺが真っ赤っかというイメージがあるが、まさにそのとおりの冷たい風。事務所兼プレハブの施設では風が吹くと、その風がなくんです。それぐらいすごい風だった。夜中に目が覚めることはよくありましたよ」

地域に溶け込む

結局、大谷はこの地に30年以上いることになる。養豚場ができ上がってからは、ずっとそこでの仕事に従事してきた。今年で66歳になるが、ジャケットをまとった大柄な身体は筋骨たくましく、赤城山で肉体を酷使した長い日々を想像させる。そのころ、養豚業と同じように心身を費やしたのは、地域に溶け込むことだった。
「入植して5年は地域の人たちからいろいろ言われるんですが、それは仕方のないことです。私たちはどうしたってよそ者ですよ。必ず反対があることは覚悟しなきゃ。反対する人は何を言っても反対なんですよ。ただ5年、10年経ったときに、反対してきた人から『地域にこれだけ雇用が生まれて生活が良くなった』と言ってもらえるよう努力すること、地域に認めてもらうことが大事なんです。それには場長の努力が大切でして、できる限り地域の会議には出席する。もちろん、嫌なことを言われますよ。それでも歯を食いしばってやれるかどうかが肝心なんです」

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