ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

読み切り

我らにとっての「土を考える会」(前編)

あの出会いがなければ 今の自分はないだろう


司会 ところで駒谷さんが入会されたのはいつになりますかね?

駒谷信幸 勝部のお爺さんのお話を聞いた記憶がありますから2回目からでしょう。たまたま宮北さんたちと同じ長沼の生まれということで参加させていただいたと思います。皆さんの自己紹介で話される面積を聞いてびっくりしちゃって。僕はその当時、水田50haと畑が20haで70haくらいあったんだけど、恥ずかしくて目をみれなかったね。その位びっくりした。46年にアメリカに視察に行って、国府田農場さんの1800haとかの水田を見てきて少し外国を意識するようになったんだけど、北海道の中にもこんな素晴らしい人がいるんだと思った。僕はその頃、ここまでできたから後はゆっくりやろうくらいに思ってたんですけど(笑)、これで燃え上がりましたね。

司会 3、4年続けた頃ですか、土を考える会は大規模農業経営者達の集まりだから、平均的な20haくらいの規模の経営者の方から我々の話す仲間ではないと思われて、事務局としては苦労した時代もありました。最近はかなり変わって広く認知されるようになってきましたけど。その当時、駒谷さんの所にお邪魔して、強烈な印象を受けたのを覚えています。その時、自分は堆肥が欲しくて豚屋さんを自分の土地に呼び込んだ、と。そしてここで経営してもらってそのカスを貰うんだ。そのカスこそが一番の儲け所なんだといっておられました。その上、家から180kmも離れた様似町に肉牛の牧場をこれから作るという。その夢の壮大さに驚きました。

 ところで去年、本別の農業大学校の経営者のための研修コースの方々が土の館に来られたのですが、36名の中で女性が一人いました。それが駒谷さんのお嬢さんだというじやありませんか。酪農大学で獣医士の資格を取られた上でその牧場をやっているというじやありませんか。弟さんがお父さんの水田の部門をやるだろうとおっしやる。さすが一家をあげて夢を果たされているなと感動しましたよ。


出会いに触発されて始めた仕事を受け磨いだ私の後継者たちのこと


駒谷 僕も、土の会に参加させていただけなければおそらくあんな牧場なんてやらなかったと思うのですよ。水田では100町くらい作ってみたいと思っていたのだけど、転作転作で土地を持っていても作らせてもらえなかったから、限界を感じてたんですよ。法律的に50町以上作っちゃいけないなんていうことはないが、もう遠慮せよって感じで50町以上は買えなかった。そんな事情で畑や水田では近くで手に入れられない。しかも米では豊作だと翌年は減反。農業者にとってはたくさん獲れることが喜べないという辛い時代になっていた。それで肉牛に入った。

 子供たちのことですが、あの当時から後継者問題がよく語られていましたが、僕は子供たちに、息子だからといって後は継がさないと常に言っていたのです。農業が好きな本当にやりたいと思う者にやらせるべきなんだって。子供が継いでくれたらいいなという思いはありましたけどね。そしたら娘が農業やるって言い出しちゃった(笑)。

 あの子は三女なんですが、小学校の4年生の冬に、牧場に連れて行って子牛の治療を手伝わせた。注射打たせたりして。だけど子牛は死んじやった。子供はかわいそうだといっていつまでも子牛を撫でている。僕は記憶が無いのだけど、その時に「お父さんに獣医の資格でもあれば助けられたのかもしれんのにな」と僕がいったというんですよ。その時に獣医になって、牧場やろうと決めたというんですよ。3月に大学の先輩と一緒になって牧場を継ぎますけど。

関連記事

powered by weblio