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新・農業経営者ルポ

絶望の中で未来を見出した起業家

1粒1000円のイチゴを売る男がいる。農業生産法人GRA代表の岩佐大輝。東日本大震災で故郷の惨状を目の当たりにした岩佐は、町の誇りである特産のイチゴづくりを再開することに未来を見出した。あれから3年半、インドにまで進出した起業家の軌跡をたどる。 文・写真/窪田新之助、写真提供/(株)GRA
7月の終わり、JR仙台駅から車で南に向かった。1時間ほどして車の行き来がめっきり少なくなったころ、道路脇にある看板の文字に目が留まった。
「ストロベリーロード」
目的地までもうすぐだなと思った。
看板が指し示す海岸の辺りは、かつて東北地方で最大のイチゴ産地だった。南北に走る道の両脇にはビニールハウスが点在し、絶好の日照条件のもとで129戸の農家がイチゴを作っていた。3年前、それらを大津波がのみ込んだ。無傷で残ったビニールハウスは数戸分に過ぎなかったという。
GRAの所在地はカーナビで調べても登録されていなかったため、近くまで来てからは当てずっぽうで運転していたが、迷うことなくすぐに見つかった。開けた水田地帯に、威風堂々と巨大なハウス群が待ち構えていたからだ。車を停めると、ちょうど昼すぎだったこともあり、自宅で昼食を食べてきたと思われる従業員たちが次々と車で戻ってきた。つられるようにハウスの中に入っていくと、岩佐が笑顔で迎えてくれた。「まずは話しましょうか」と言うので、農業参入のきっかけから聞くことにした。

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話は3年前にさかのぼる。“あの日”、職場と住まいがある東京にいた岩佐は、ニュースで故郷の惨事を知った。驚いてすぐに山元町に暮らす両親に電話をしたが、つながらない。居ても立ってもいられなくなり、震災から3日後の3月14日、車に食料や毛布だけを積み込んで山元町に急いだ。ようやくたどり着いた故郷で両親の無事は確認できたものの、生まれ育った町のあまりの変わりように言葉もなかったという。
そのときに撮影した写真を見せてもらった。海水がまるで引かずに海と化した陸地。茫洋とした荒野で、ひしゃげて残骸と化した駅舎。いまの山元町の農村らしいのどかな雰囲気と比べれば、写真にある惨憺たるありさまが嘘のように感じられる。この後、岩佐がどのように行動していったか、時系列で並べる。

2011年
3月 支援活動始動
4月 
グロービス経営大学院の仲間と任意団体、GRAを設立
(NPO法人格の取得を申請)
10月 
山元町の農家らと
ビニールハウスを竣工

2012年
3月 
1haでフェンロー型
ハウスを竣工

6月 NPO法人格を取得
9月 
2.5haの農地を借りて
フェンロー型ハウスを増設

11月 
インドにビニールハウスを竣工

ここに書き記したのはあくまでもGRAの誕生と農業に限ったできごとに過ぎない。そもそもGRAという組織は2つあり、農業以外の活動もしている。一つはNPO法人であり、産業創造事業と教育事業を展開する。もう一つは(株)GRAという農業生産法人であり、イチゴとトマトを作っている。
短期間にこれだけの事業を起こせたのは、故郷への強い思いがあったからというのはもちろんある。それと同時に、4つの会社を興してきた起業家としての岩佐は、農業や被災地のために新たなビジネスを起こせる可能性をかぎ取った。
「東北地方は1000年に一度といわれる大震災に見舞われたわけですけど、これはピンチであるとともに、稀に見るチャンスであるのではないかと思いました。志があれば、チエ、モノ、カネはすぐに集まるのではないかと」

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