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新・農業経営者ルポ

絶望の中で未来を見出した起業家


震災後、同じような思いを抱いた人はほかにもいるに違いない。ただ、岩佐が指摘するように「99%」は思うだけであって実際には動かない。岩佐はそうではなく、動く「1%」になろうと決意した。

新聞配達で培った起業家精神

これは自身が認めるように両親の教育によるところが大きい。両親は岩佐に子どものころから衣食住以外のものを与えなかった。欲しい物を自分で手に入れるため、岩佐が小学5年生で始めたのは新聞配達のアルバイトだった。自転車で毎日13戸を回って朝刊を配り、集金もした。それで毎月6000円を稼いだ。貯めた金を何につぎ込んだかといえばパソコンである。当時、30~40万円したというパソコンを買い、ゲームソフトの開発に打ち込んだ。
パソコン少年は高校卒業後、パチンコで生計を立てるパチプロになる。思うところがあって21歳で駒澤大学経済学部に入学。ただ、せっかく入ったものの、大学の授業にはほとんど出席せず、ソフトウェアの開発に明け暮れた。大学4年時にそれを仕事とする(株)ズノウを創業したのは当然の成り行きといえるだろう。

取り戻すべきは地域の誇り

だから、震災直後に岩佐がまず始めた支援は、得意分野であるITを活かした被災者の安否確認のサービスを提供することだった。続いて取り組んだのはボランティアでの力仕事。MBAを取るために卒業したグロービス経営大学院時代の仲間とともに、毎回30~40人を引き連れて土砂やがれきの除去に励んだ。あるとき、その姿を見ていた町民が声をかけてきた。
「君たちは会社の経営だとかに詳しいんだろう。だったら力仕事ではなくて、この町に産業や雇用をつくってくれないか」
たしかに力仕事なら他の人たちでもできる。岩佐たちはせっかくグロービス経営大学院でMBAを取得したのだ。自分たちの能力を結集すれば新しい産業が起こせるはずだ。
では、山元町の人たちにとって大切な産業とは何か。町の人たちに聞いて回ったところ、10人中9人が口にしたのはイチゴだった。
「経済的に大きいということはもちろんなんですが、山元町の農家にとってイチゴは誇りでもあるんです」
それで手がけることを決めたイチゴ産地の復興。当初計画していたのはマーケティングだった。農家が作るイチゴをブランディングすることだ。しかし、すぐ壁に当たった。山元町産のイチゴは農業団体を通して“宮城県産”で売っている。それでは“山元町”の存在を世間に知らせることができない。

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