ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

新・農業経営者ルポ

不屈の夫婦~飛ぶ夫、受ける妻~


敏朗が経営者としての素質を持っていたことは、就農当初から詳細に労働日誌をつけるという行動に表れている。それによって敏朗は自分の労働効率を把握し、その後の経営の基礎を築いた。
「春と晩秋に蚕のまゆを取り、夏場は葉タバコを収穫する。合間に牛やコメの作業が入る。15分を1単位として、4分野の作業にどのぐらいの時間をかけているか記録していた。それがその後の経営の原価計算に役立った。葉タバコと蚕のピークだった72年ごろ、1000万円の売上があっても、時給360円ぐらいだとわかった。当時、土木作業が時給600円の時代だったので、このままじゃいけないと思った」
80年、敏朗はドイツやデンマーク、スイスに農業視察へ行った。そこで、これからの時代はハウスだとの考えに行き着く。
帰国後、経営の転換を後押ししてくれる人々に出会う。その年、郡山の農業を支援していた武田邦太郎氏が主催する若手農業者のための「あぶくま農学校」に参加し、経営学に触れた。また、翌年にはバイオテクノロジー専門の軽部征夫氏などを講師とした日本能率協会の勉強会に出席し、原価計算や発想の転換を学ぶ。こうして経営者としての力を磨いていった。
「彼らは経営の考え方を教えてくれた。蚕を毎日ふ化させれば作業が均一化されるだろう、桑の葉を冷凍保存したら1年中まゆを生産できるだろう、牛を妊娠させる作業は一度にできるだろうと。そういった考え方が後々、私のカイワレの経営につながった。あの経験がなかったら、いまの自分はなかっただろうな」
82年、敏朗はハウスで栽培するカイワレダイコンに目をつける。父親の反対を押し切り、借金をして設備を導入した。しかし、蛍光灯と空調による温度管理で栽培したカイワレダイコンは売り先で棚持ちがしなかった。そのうえ、落雷でハウスの電気系統が壊れてしまう。栽培を始めた翌月には早くも見切りをつけた。
「見事に失敗。3000万円の借金が残った」
結婚9年目を迎えていた妻・セツ子はどれほどショックを受けたことか。だが、そのときにセツ子が夫にかけた言葉は、夫の気持ちを軽くし、次の行動に向かわせるものだった。
「あんたは一生かけて借金を返しなさい。家計は私が自分で稼ぐからいいよ」
妻の言葉を受け、敏朗はまたすぐに飛んだ。東京の神田市場で見つけたカイワレダイコンのパッケージの住所を頼りに、あるハウス農家をアポなしで訪ねる。
「そこで成功しているのを見て、その年のうちにハウスを2棟建てた。投資は6000万円だった」

関連記事

powered by weblio