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新・農業経営者ルポ

不屈の夫婦~飛ぶ夫、受ける妻~


つまり、数カ月の間に9000万円の借金を抱えたことになる。いま思うと馬鹿なことをやったと話す敏朗だが、採算の見通しがなかったわけではない。先の学校で学んだ経営学を活かし、単価、原価、利益を緻密に計算した。それを親戚に説明し、資金調達する。
それから同年12月26日の初出荷を皮切りに快進撃が始まった。主要産地の静岡県の同面積に対して150%の収穫高で、翌83年の春までに売上は1億円に上った。同年3月、降矢農園を設立し、ハウスを1000平方mに増設した。

O-157を乗り越え、
3本の柱へ

ピーク時、カイワレダイコンだけで栽培面積が約3000平方m、売上は4億円だった。従業員も45人を抱えるまでになっていた。96年、カイワレダイコンの単価は落ち着いてきたが、それでも3億5000万円の売上があった。
そこに突如として大きな不運が訪れる。学校給食で起きた食中毒に端を発するO-157騒動に巻き込まれたのだ。当時、原因はカイワレダイコンに使用されていた水にあるとされ、風評被害に遭うことになる。
「忘れもしない、96年8月7日。その日の朝、取引先から電話が入った。11時にカイワレダイコンが原因だと発表されると。その日の夕方にはすべて店頭から撤去された」
売上は一ケタ下がって3700万円まで落ちた。従業員は身内と近所の人たち10人だけを残すことにし、他の従業員には給料を3カ月間支払いながら仕事を探してもらったり、知り合いに頼んで雇ってもらったりした。取引先は信用して支払いを待ってくれた。ただ、なかには即時の支払いを迫ってきた取引先もあり、苦しい経営が続いた。同年10月、国を相手に争った損害賠償をめぐる裁判では敗訴に終わった。
「俺はそんなに危ないものを作ってきたのか」
そんな思いを胸にカイワレダイコンの汚名を晴らすため、18社1団体の計19人の原告団の1人として戦った。騒動から8年以上経った04年12月14日、ついに最高裁で勝訴する。敏朗は、当時の資金繰りの苦労を振り返る。
「自転車操業でね。どうやって生き延びてきたのか。ただ夢中だった」
セツ子は、この不運を驚くほど前向きに捉える。
「あれは起こるべくして起こったんだと思うの。あんなに仕事がうまくいってる状態は、続かないような気がしてた。もしあれがなかったら、後で確実にこけたよね」
この言葉に敏朗もうなずく。
敏朗は、O-157騒動の経験から、カイワレダイコン1本の経営を翌年、カイワレダイコン、豆苗、サンチュの3本柱に移行させた。また、自社製品のための配送部門を拡大して物流会社として独立させた。

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