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人生・農業リセット再出発

ないものを嘆く前に、いまあるものに感謝

一意専心。他に心を動かされず、一つのことに心を集中する。生後19カ月で聴覚・視覚・言語を失ったら、あなたは人生をどう過ごすだろうか? 
ヘレン・ケラーはそういう状況でアメリカに生まれた。日本では、大隈重信や福澤諭吉、伊藤博文などが活躍している明治時代。ヘレンは、三重苦を克服して文字を学習し、そして世界中に勇気を流布してまわった。「もしもこの世が喜びばかりなら、人は決して勇気と忍耐を学ばないでしょう!」と言いながら、彼女は大きな希望を抱いて1937年に日本へやってきた。埼玉県本庄市で演説し、「母から、日本には幼くして眼がまったく見えなくなってしまったのに努力して学問を積み、立派な学者になった方がいた。人生の目標になる人ですよ。こう聞かされました。だから、私は苦しいときや辛いときもくじけずに、努力することができたのです。日本に行ったら必ず埼玉を訪問したいと長い間思っていました。私が人生の目標とし、心の支えになった方は塙 保己一先生と言います!」
盲目の大学者、江戸時代後期の国学者、塙保己一は1746年に現在の埼玉県本庄市に生まれた。5歳で病気にかかり、視力を失い始める。母親は哀れな保己一を背負って片道8kmを連日歩いて医者へ通うが、7歳で完全に光を失う。12歳で母が他界すると、保己一は杖を頼りに歩き、学問で身を立てる!と決意。父親を説得して15歳で江戸に出る。この時代は、まだまだ眼が見えない者の選択肢は少なく、あん摩や鍼灸、琵琶や三味線弾きで身を立てるのが精一杯だった。江戸では盲人の職業団体で働くものの、どうしても学問がやりたいと団体の師匠に自殺覚悟で懇願してようやく学問への道が開ける。眼が見えないことから、書物を人に読んでもらって全身を耳にして必死の思いですべてを記憶していった。こうした真剣な姿に多くの援助者が現れる。やがて当代随一の国学者の門人を許され、日本書紀など日本の六種の正史を読破していく。国学、和歌、漢学、神道など、当代の一流文人から教えを受ける。34歳になった保己一は、『神皇正統記』や『懐風藻』などの貴重な古書の散逸を危惧し、版木にして残すために41年間にわたって収集と編纂に取りかかった。明治の文豪、幸田露伴は、保己一の功績を「散逸の恐れがある貴重な文献や書物を後世に伝え、誰もが直に手に取ることを可能にした。かつては秘伝と称して特定の人だけに授けられてきた学問の開放と普及に貢献した、偉大な人物である」と後に評価している。

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