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どのような経営を目指して、どのようなお米をつくって、どうやって販売したいのか。そのためにはどの技術が必要なのかと落とし込んで考えておく。試験的にトライして、経験を積み、情報を持っておけば、その「いつか」が来た時に前に進めると田尻は考えているのだ。
稲作作業とスキーは相性抜群
農業への尽きない探究心を口にする田尻だが、農業をやろうと思ったことも、社長になりたいと思ったことも一度もなかったと笑う。では、何に惹かれて農業を選び、経営者になったのだろうか。きっかけは意外なところにあった。
田尻の家が農業を始めたのは父の代からだ。近隣の農家から田んぼを借り受けてコメづくりを始め、その後、ブドウ園との複合経営に拡大した。現在も父はブドウ園の経営をしている。その長男に生まれた田尻だが、小さい頃に田んぼを少しは手伝っていたものの、農業にそこまでの興味を持てなかったという。
工業高校の電子科に進学し、卒業後はバイクを販売する営業職に就いた。地元を離れて福岡や愛媛などを拠点にサラリーマンの道を選んだはずだった。ところが、20歳のときに仕事で大怪我を負い、やむなく退職。実家に戻り、再就職先を探しつつ家業の農業を手伝うことになる。
なんとなく稲作を手伝い始めたものの、当時は本気で農業をやろうなどという気などサラサラなかった。仕事が見つかるまでのツナギの仕事のつもりだったという。
春から秋まで手伝う実家の稲作。実は、これが若き田尻にとっては好都合な仕事だったのだ。当時の趣味はスキー。稲刈りが終わって、次の田植えまでの暇な時間は、喜び勇んでスキー場に向かった。住み込みでアルバイトをしながらスキーに夢中に遊んでいるうちに、こんな生活は趣味と両立できるコメ作りという家業のおかげだと気づく。そして、農業のなかでも稲作を仕事として選択したのである。
当時の親子の経営面積は10haほど。実家の離れに暮らし、作業も徐々に慣れていった。その後、市内の農家仲間から無人ヘリコプターの農薬散布を手伝ってほしいと誘われ、免許を取得。受託作業に参加するようになり、父からもらうお給料とは別の収入源を得た。
ほどなくして、父の手伝いとは別に、自らの名義で農地を借りてのコメ作りにも着手した。さらに父からも1haの田んぼを借りると、コメの生産・販売と無人ヘリコプターの受託で生活が成り立つようになった。税務署に出向いて相談をすると、生計が別なら、父から独立して個人事業主になれると言われ、晴れて、父から給料をもらう生活を卒業し、新たな経営が始まった。
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田尻一輝 タジリカズテル
カンドーファーム(株)
代表取締役
1976年島根県松江市生まれ。工業高校電子科を卒業後、サラリーマン生活を経て、20歳で実家の稲作・ブドウ栽培を手伝い始める。2002年頃に父の経営から独立。08年にカンドーファーム(株)立し、父の水稲部門を法人で引継ぎ、代表取締役に。事業内容は、水稲約60ha・イチゴ13aの生産・販売。
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