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編集長インタビュー

本物の商人に学ぶ“利に敏ければこそ果す義”

政治家、官僚、農業団体、学者、関連業界人そして農民運動家たち。彼らの語る〝大義〞こそが日本農業を滅びの道に導いてきた。農業を神棚に祭り上げ、お題目にように「農業を守れ」と唱え、大義を語って自らの居場所を守りながら。そんな日本のコメの世界を救うのは、義のためでなく、利あればこそ事業を為す商人の力である。本物の商人の〝利に敏ければこそ果せる義〞に農業人は学ぶべきである。三菱化学が始めたコメの民間育種事業を買収し、スーパーコシヒカリともいえる「夢ごこち」を中心に事業を展開する㈱中島美雄商店の中島隆太郎社長に話を聞いた。(構成:昆吉則)
時代あるいは皆が考えることの逆の道を選ぶ

昆吉則(以下、昆) 失礼な言い方ですが、御社は肥料の地域卸。そこが大企業の取り組んだコメの民間育種事業を買収した。米育種はもともと官が支配してきた分野。大手企業でも続けられなかった事業を地方の小さな企業が発展させている。

中島隆太郎(以下、中島) 端から見るとわが社は訳のわからん会社だと言われる。

昆 そもそも御社の創業は?

中島 祖父の中島辯治郎が大正2年に創業しました。屋号の中島美雄は私の父の名前で、現在の会長です。大正初期に雑穀屋を始め、飼料の小売・卸に始まって肥料に転じた。食糧増産体制の中で昭和 30 年後半から事業を拡大していった。それと、京都まで約 15 分という滋賀県草津にいる地の利を活かした賃貸アパート、マンションを経営する(株)くさつビルという会社がもう一つの柱です。

昆 肥料が本業だが、肥料で出た利益を不動産に転じてきた。でも、減反から何年か経つと、肥料やさんには厳しい時代が始まる。

中島 昭和 49 年くらいから家業を継いでいますが、陰りかげりが見えてきたのは昭和 52 ~ 53 年位から。もっとも、その当時は私も若かったし勢いがあった。滋賀県を越えて京都や奈良に商圏を広げました。3~4年かかって 20 、 30 軒の卸先を増やしたのですが(問題は)都市化ですわ。そこで今度は、肥料商として将来の拡大が見込める北陸に足を伸ばし、平成2年に福井に支店を作る。アグリハウスという大型農家向けの直売店です。

昆 北陸は経済連が強いところ。
中島 そうそう。だから小売店が少ない。その当時から大型農家が農協から独立していった。肥料の商売に対する危機感はありましたが、北陸という経済連の強い場所だからこそビジネスチャンスがある。従来の小売店も淘汰される。でも、我々から資材を買う農家が出てくる。お宅の読者のような方です。

昆 米育種事業に着目されるのも他の人がやらないことですが、時代あるいは皆が考えることの逆を行く。その時、米の集荷も始めた?

中島 いや。お米の集荷は平成7年に食管法改正があってからです。ただ、購入者を登録して米を販売する制度がありましたよね。それが始まった時、これは肥料商の我々にとってお客さんを抱え込む最高のチャンスだと思いました。大規模農家を訪ねると、その制度を使って米を売りたいと言う。自分で米を扱うのではなく、その人たちに商売の手がかりというか、通信販売のさわりを教える。肥料を売る前に、コメの売り方を教えてあげたわけです。何年かするうちに平成5年のコメパニックです。当時、北陸の農家にコメがあるかと聞くと、飯米+αならあるという。今すぐそれを放り出せ、広告を打て、と教えた。今こそが客を取る時や、将来のお客が欲しければ今しかチャンスないで、と。そしたらワンサカ注文きますわ。

昆 あの時、売り惜しみをした人はだいたい失敗している。米屋もそうだけど。あのタイミングに中島さんのような商売人に接することのできた農家は幸運だった。それが、その後の農家との信頼につながった。

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