ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

女の視点で見る農業経営

自宅でOLしているようなもの でも、充実度は主婦+OL以上 みんなの役に立てたらとってもうれしいですから

「この家に来るまでは、この青森に産直やってる農家なんてあるわけがないと思ってました。みんな作りっぱなしで、農協や市場に出しっぱなし。作ってしまえば、後はなんとかなると思ってる。『ああ、農家はいずれダメになる』って……」
「この家に来るまでは、この青森に産直やってる農家なんてあるわけがないと思ってました。みんな作りっぱなしで、農協や市場に出しっぱなし。作ってしまえば、後はなんとかなると思ってる。 『ああ、農家はいずれダメになる』って……」

 そんな風に考えていた淑子さん(25歳)が嫁いできたのは、青森県西津軽郡木造町の稲作農家の小田川家――。

 夫の小田川景行さん(37歳)の父である太さん(63歳)は、身内をガンで失ったことをきっかけに、昭和42年から無農薬有機栽培の米作りを開始した。減反政策が始まったときも、町の中でたった一人反対を表明した。農協と対立し、自力で全国を回って米を売り歩くなど、幾多の困難を経て、消費者とのつながりを築き、直接米を販売するスタイルを確立した。53年に「食べ物と健康を守る会」を設立し、さらに消費者との結びつきを深めている。淑子さんがそんな小田家のことを、人伝てに聞いたのは、四成の時だった。 

「無農薬でお米を作ってて、お客さまに直接販売してる。冬にはお客さまにご挨拶に行ってる家なんだと。理想的な農家だな、これなら生き残っていけるなって思いました」


普及員の嫁が来た?


 淑子さんは、南津軽郡波岡町の出身。父親は自営で板金塗装業を営んでいた。もともと農家出身の人で、近くの畑を買い取り、本業のかたわら農業を始めようとしていた。 

「いずれは農協に出荷しようと思ったらしく、ニンニクを作っていました。ところが管理が行き届かなくて病気でやられたり、肥料が足りなくて大きくならなかったり。やっぱり二足の草軽は履けなくて、いつも失敗ばっかり」

 淑子さんは、地元の進学校へ通っていたもののなかなか成績が伸びず、進路に悩んでいた。そんな矢先、お父さんが「こんな学校もあるぞ」と教えてくれたのは、黒石市の青森県農業試験場と同じ敷地内にある「青森県農業大学校」だった。

 2年制で、卒業すれば農協の営農指導員や農業改良普及員の受験資格が得られる。また、国家公務員の試験に合格すれば、農政局、食糧事務所などの農水省系の役所で働く道も開けていた。 

「ゆくゆくは公務員。安定してていいな」

 という思いで入学。失敗だらけのお父さんの畑をなんとかしたいという思いもあり、当初は土壌分析を専攻する予定だったが、専門を決める寸前に、同級生に「代わってくれ」と頼まれ、断りきれずにイネの品種改良が専門の「稲作科」に進むことになる。試験場の田んぼに入って稲の丈を図ったり、籾や分げつ数を数える毎日だった。

 大学校も2年目に入り、就職活動を開始。当初の予定通り目標は国家公務員。国家Ⅱ種の試験に見事合格したものの、肝心の就職先がなかなか決まらない。再三再四、大学の研究室や役所などの面接を受けるのだが、どれも不合格。せっかく国家試験に受かったのに、これでは落ちたも同然ではないかと、悔しい思いに苛まれたが、卒業間際まで就職先は決まらなかった。淑子さんが小田川家のことを知り、景行さんとお見合いしたのは、そんな時だった。

 お見合いといっても、淑子さんは、当時まだ20歳。「練習だ」くらいの軽い気持ちで出かけた。けれど景行さんの方は相当気合が入っていたようだ。自称「スキー大好きオンナ」の淑子さん。お見合いの会場にはスキー場が選ばれた。一方景行さんは、スキーを履くのはその時が生まれて初めてで、密かに練習を重ねてその日に臨んでいた。

 その後景行さんに連れられて、小田川家に遊びに行くようになり、家族といっしょに、生まれて初めて自家製の米を炊いた玄米ご飯を食べた。

「それがほんとにおいしかったの!」

 かくしてお見合いの日から5ヵ月で、2人は結婚することになった。

 披露宴の日、新婦側の来賓席には試験場の稲作部の職員など、大学校時代の恩師が並んだ。

「『普及員の卵が来た!』って、小田川家のお客さんが、圧倒されちゃって(笑)。私は何にも知らないのに。最近になってやっとほとぼりが冷めたけど、いまだに『あそこの嫁に聞けば、なんでも知ってる』って思ってる人がいるんですよ」

関連記事

powered by weblio