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女の視点で見る農業経営

女ひとり、給餌は3日に一度で120頭肉牛肥育経営。

結婚4年で経営の中心に


 八重子さんは、美祢市にほど近い秋芳町の出身。実家は稲作中心の農家だったが、娘時代はほとんど農作業を手伝ったことはなかった。高校卒業後地元の小学校に事務職員として勤務。その頃から善治さんとのお見合いの話が持ち上がっていた。

「最初は私、行かん、行かんつて言ってたんですよ。でも結局縁があったんでしょうね。丸一年で仕事をやめて結婚しました」

 36年の結婚当時三嶋家では水稲80a、リンゴ20aを栽培する他、4haの山林を所有していた。農作業や山仕事の主力は、専ら夫の両親である研治さん、トキ子さん夫妻。長男の善治さんは、山口県の育成牧場に勤務する公務員という、兼業農家だった。家を預かる八重子さんは、結婚と同時に農作業に出るようなる。

 2年後の38年、暖地リンゴの栽培をストップ。それまでは8月半ばのお盆に向けて出荷していたが、味が消費者の口に合わなくなったことや、受粉や消毒のための人件費が嵩むことなどが原因だった。また、当時は耕作用の牛を1頭飼っていたが、年に一度種をつけ、子牛を市場に出して家計の足しにしていた。その産まれた子牛を市場へ連れて行くのは、八重子さんの役目だった。

「その頃はまだ、二十歳そこそこの女の人が牛を連れて来るなんて珍しかったんですね。業者の方の目に止まって、『うちの牛を飼ってみないか』つて誘われたんです」

 それを、家に帰って研治さんに話したところ、「いいじやろ」ということになり、早速5頭の肥育牛を導入。当時は、まだ日本の食卓に牛肉は珍しく、肥育牛を育てれば、育てただけの収益が望めた。

 さらに2年後の40年には、美祢農協から、近代化資金60万円を借り入れて牛舎を建て、規模を30頭に拡大し三嶋牧場を設立。夫には勤めがあり、その両親も病気がち。この時から八重子さんは、名実共に牧場の代表を務めることになった。また、この時から肥育した牛は、直接市場へ出すのではなく、(有)秋吉台肉牛ファームとの受託飼育の契約を結び、販売ルートを一本化した。

 牛の頭数が増えるに連れ、糞尿処理の問題に悩まされた。

「置場がなくて困るんです。近くの農家の方に、稲刈りが終わったら、田んぼに入れさせてくださいとお願いして、タダで運んで入れていました」

 当時はまだ、八重子さんは車の免許を持っていなかった。善治さんが仕事から帰ってからの夕刻や、日曜や休日を割いて堆肥を運んでいた。そんな状態が続いて、自分の田に手が届かなくなってしまった。

「稲と牛を同時にやり続けるのは、とても無理だと。それで田んぼを人に預けて、肥育一本にすることにしました」

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