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農業経営者ルポ

父が先生、畑が学校だった我々三兄弟

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第19回 1996年10月01日

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全国生産量の70%を作る


 オカヒジキは、もともと海岸の砂丘などに自生する1年草の野草で、長さ2~6mの細い円柱状で多肉質の葉を付け、その柔らかく濃い緑の若葉を食べる。独特の風味があり、酢味噌合えやお浸しなどにして食べられてきたが、最近ではサラダや各種の調理法も開発されている。隆治氏は、このオカヒジキを通年で生産できる作物として栽培技術の開発に取り組んできた人なのである。また、生産組合を作り南陽市での産地化の先頭に立ってきた。隆治氏の活動によって一時期は生産者も増えたが、生産量が増すにつれて価格も下がり、ほとんどの人が止めてしまった。

 かつては、オカヒジキ生産組合の中心人物であったが、千葉の農場が本格的に稼働するようになってからは、「若芽ひじき」というブランドを付けて寺島農場独白で販売するようになっている。

 独自ブランドを作ったのには、九州や静岡などでも栽培が始まり、肥料や農薬を使うために食味などに誤った認識が広がるのを恐れ、差別化をはかる必要が出てきたこともある。現在、同農場の生産量で全国の70%程度を占めるのではないかという。

 英治さんたちが千葉への進出を考えたのも、オカヒジキの消費拡大が目的だった。父、隆治氏が精根をかけて開発したきたオカヒジキがこのまますたれていってしまうことを惜しいと考えたからだ。生産量の低迷は、販売努力の不足と生産意欲の問題だと思えた。種子生産から栽培、市場開拓、販売までを自らの手で総合的にやればもっと販売量も利益も増えるはずだと考えた。そんな頃、隆治氏の古くからの友人が千葉でのオカヒジキ作りを勧めてくれた。

 千葉であれば通年で栽培ができるし、大きな市場を控えている。しかし、産地作りに力を注いできた本人である隆治氏が、自分自身でそれを始めるには村のしがらみが足カセとなっていた。

 千葉からの誘い話を隆治氏から聞いた英治さんは、二つ返事で「我々にやらせて」と頼みこんだ。


千葉農場の開設と法人化へ


 平成4年の11月だった。隆治氏の友人からの紹介を得て、12月には英治さんが単身で、‘さらに翌1月には妻の清美さんも千葉に移り住んだ。まず、借りる土地探しからの農場開設だった。お金があるわけでもない。行ってしまえばなんとかなるという思いだった。千葉行きを勧めてくれた父の友人が土地を借りる段取りを付けてくれた。しかし、移住して1年間はほとんど収入もなく、夫婦で「今月はお金があと500円しかないよ」なんていいながら近所の農家から野菜を貰って食べたりもした。新婚の二人にはそれも楽しかった。そして、平成5年の秋には敏さんと奥さんが、正雄さん夫妻が相次いで千葉に移住してきた。さらに年が明けて千葉の農場を法人登記し、有限会社寺島農場が発足した。

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